Sherlock小ネタ2
場を明るくするための実のない会話。そんなものが一つも存在しないあの部屋には、同時に気遣いとやらも不要だったので、彼を知る者が驚愕と畏敬の入り混じった表情で自分を見やるのを、ジョンはあまり良く思っていなかった。
いや君たちは彼と暮らしたことがないからそんなふうに考えるのだろうが、彼を取り巻く、あるいは引き寄せられるように集まってくる危険さえ承知していれば、エキサイティング―嫌味でも何でもなく―な生活と言えなくもないよ。彼自身も、退屈を極度に嫌う性質がちょっと厄介ではあっても積極的な害はないんだ。本当に。フォローばかりでは真実味に欠けるので、もちろんうんざりする時がないとは言えないがね、と留保をつけておくのも忘れない。
すると相手は、複数人であれば仲間内で素早い目配せを交わし、一人であればジョンから視線を逸らしフリークスとは言わないまでもそんなような言葉を口の端にちらりと滲ませたりする。
害、harmという単語を用いておきながら弁明しているつもりでいる自分も相当かもしれないが、ろくに彼のことなど知らないだろうと言ってやりたくもなるし、実際言ったこともある。
けれど彼らは生身のシャーロックとは関わりたくないようなのだ。噂を耳にし、その詳細をジョンに補強してもらうくらいが適度な距離感とのこと。会ったら祟られるとでも思っているのだろうか。
そんな中、ジョンとシャーロックを引き合わせた友人だけが、何か物言いたげな、それでもはっきりとした笑みを浮かべるのだった。
「君を紹介したのは単なる偶然だったけどさ、偶然は必然とはよく言ったものだね。ああ、運命と言い換えるべきかな。同じ日に二人からルームシェアの希望を聞くだなんて経験、これまでの人生であれきりだよ」
礼と報告とを兼ねて勤務先に立ち寄ると、すっかり太った腹を揺らして友人は大仰な物言いをした。自動販売機で買った饐えた匂いのするコーヒーを、ジョンは彼に渡しながら顔をしかめた。
「運命はやめてくれ」
「どう呼んだって同じことさ」
友人は愛嬌のある顔でおもむろに頷いた。
「しかもその二人の相性は抜群と来ている。僕は結婚相談所にでも転職するべきじゃなかろうか」
「またバカなことを」
彼と二人で登記所に並ぶところをうっかり想像してしまい、ジョンは眉間に深い縦皺を刻んだ。ろくでもなかった。慌てて振り払う。
「シャーロックと僕は別段相性が良いんでも悪いんでもないよ。フラットメイトでいるのと結婚するのとは全くの別物なんだから。僕はただ、シャーロックの好む世界に、同じく惹かれる部分があるってだけで」
「戦場帰りの軍人は度胸があるねえ」と彼は眉を上げ、「シャーロックは変わっているが僕の知る限りまともな人間だ。特に君みたいな奴が傍にいるならより一層安心だよ」
どういう意味だよ、と笑い合って別れた。
――一体彼は何者なんだい?
唐突にすぎた初対面時。キュートさとは程遠いウインクを残して颯爽とシャーロックが去っていった後、ジョンは友人に尋ねた。その声には「あの変人は」という内心がありありと表れており、シャーロックとファーストネームで呼び合う友人の気に障ったかもしれなかったが、あまりの衝撃に配慮している余裕がなかった。
―何者だろうね、と彼はのんきな返答をよこした。恐ろしく頭が切れるのは確かで、きっと僕のことも色々見抜かれているはずだが、彼自身のことを把握している人物なんて果たしているんだろうか。
仮にもフラットメイトとして引き合わせておきながらそんな無責任な、とジョンは軽く呆れた。でも今なら分かる。彼をこういう人物だと一言で定義する者はフリークやらソシオパスといった表現を好み、それらを好まない者はもっぱら肩を竦めるのだ。
「僕には君が分からないよ、シャーロック」
スマートフォンを弄んでいるシャーロックの頭上から投げかけると、彼はふっと顎を持ち上げ、しかしジョンを視界に入れる前に元の位置に戻った。勝手に使っているのを非難されていると取ったのだろう、彼は書きかけのテキストの続きを一瞬で打ち込んで送信し、抜け目なくその履歴を削除してから、有難う、と手中の物を返してきた。それより先に言うことがあるんじゃないかと示唆すれば、何を、と首を傾げる。
「謝罪だよ」
「謝罪?」
「僕に断りもせず使った」
「それは理由がある」
シャーロックはくるりと椅子を回転させ、ジョンに向き直った。もちろん詫びを入れようとする顔つきでも態度でもない。理由が何であれ他人の物を勝手に使うのはよくないと、生まれも育ちも良い君は重々承知だろうが、僕が分からないと言ったのはそういう意味ではない。子供に言い聞かせるみたいな口調になるのは、そうでもしないと共同生活を送るにあたって最も必要な、寛大さを忘れてしまいそうになるからだった。
「なら何が言いたい? まさか僕という人間のことが分からないって、言葉通りの意味じゃないだろうな?」
「どうして怒ってるんだ?」
「怒ってなどいない」
いくら無表情でも言い方ひとつで感情は出るものだ。怒っていないならば機嫌が悪い。ふんと鼻を鳴らして、シャーロックは再び背を向けた。
「君がそんな下らないことをいちいち口にする奴だとしたら幻滅するよと思っただけだ」
「……君こそ口にしてるぞ」
だが彼は会話を打ち切ったつもりらしく、以降返事はかえってこなかった。毎回ではないけれど、頭蓋骨を唯一の話し相手として暮らしてきた期間が相当長いからか、はたまた生来の性格ゆえか、自分の言いたいことを言い他人から聞き出したいことを聞いてしまえば、それで用は済んだとばかりに耳を塞いでしまう。時間とメモリの浪費であると考えているに違いない。ただし内容に興味があれば俄然食いついてくるから、この瞬間を楽しんでいるのだろうかと疑問に思うことはまずない。付き合いやすいところもなくはないのだ。
取り戻したスマートフォンをポケットに入れる。いくらパスワードを変えても無意味で、ロックをかけること自体をやめようかと考えたりもする。落としたときのために一応かけておいてはいるけれど。
しばらく図書館で借りてきた本を静かに読み耽り、心地よい眠気が頭を支配し始めた頃、ジョンはぐるりと部屋を見渡し、
「おやすみ、シャーロック」
何やら沈思黙考している彼に呼びかけた。
「ああ、おやすみ」
よほど集中してさえいなければ挨拶はきちんと返してくるのがおかしく、ひとり階段をのぼりながら苦笑を漏らした。
いや君たちは彼と暮らしたことがないからそんなふうに考えるのだろうが、彼を取り巻く、あるいは引き寄せられるように集まってくる危険さえ承知していれば、エキサイティング―嫌味でも何でもなく―な生活と言えなくもないよ。彼自身も、退屈を極度に嫌う性質がちょっと厄介ではあっても積極的な害はないんだ。本当に。フォローばかりでは真実味に欠けるので、もちろんうんざりする時がないとは言えないがね、と留保をつけておくのも忘れない。
すると相手は、複数人であれば仲間内で素早い目配せを交わし、一人であればジョンから視線を逸らしフリークスとは言わないまでもそんなような言葉を口の端にちらりと滲ませたりする。
害、harmという単語を用いておきながら弁明しているつもりでいる自分も相当かもしれないが、ろくに彼のことなど知らないだろうと言ってやりたくもなるし、実際言ったこともある。
けれど彼らは生身のシャーロックとは関わりたくないようなのだ。噂を耳にし、その詳細をジョンに補強してもらうくらいが適度な距離感とのこと。会ったら祟られるとでも思っているのだろうか。
そんな中、ジョンとシャーロックを引き合わせた友人だけが、何か物言いたげな、それでもはっきりとした笑みを浮かべるのだった。
「君を紹介したのは単なる偶然だったけどさ、偶然は必然とはよく言ったものだね。ああ、運命と言い換えるべきかな。同じ日に二人からルームシェアの希望を聞くだなんて経験、これまでの人生であれきりだよ」
礼と報告とを兼ねて勤務先に立ち寄ると、すっかり太った腹を揺らして友人は大仰な物言いをした。自動販売機で買った饐えた匂いのするコーヒーを、ジョンは彼に渡しながら顔をしかめた。
「運命はやめてくれ」
「どう呼んだって同じことさ」
友人は愛嬌のある顔でおもむろに頷いた。
「しかもその二人の相性は抜群と来ている。僕は結婚相談所にでも転職するべきじゃなかろうか」
「またバカなことを」
彼と二人で登記所に並ぶところをうっかり想像してしまい、ジョンは眉間に深い縦皺を刻んだ。ろくでもなかった。慌てて振り払う。
「シャーロックと僕は別段相性が良いんでも悪いんでもないよ。フラットメイトでいるのと結婚するのとは全くの別物なんだから。僕はただ、シャーロックの好む世界に、同じく惹かれる部分があるってだけで」
「戦場帰りの軍人は度胸があるねえ」と彼は眉を上げ、「シャーロックは変わっているが僕の知る限りまともな人間だ。特に君みたいな奴が傍にいるならより一層安心だよ」
どういう意味だよ、と笑い合って別れた。
――一体彼は何者なんだい?
唐突にすぎた初対面時。キュートさとは程遠いウインクを残して颯爽とシャーロックが去っていった後、ジョンは友人に尋ねた。その声には「あの変人は」という内心がありありと表れており、シャーロックとファーストネームで呼び合う友人の気に障ったかもしれなかったが、あまりの衝撃に配慮している余裕がなかった。
―何者だろうね、と彼はのんきな返答をよこした。恐ろしく頭が切れるのは確かで、きっと僕のことも色々見抜かれているはずだが、彼自身のことを把握している人物なんて果たしているんだろうか。
仮にもフラットメイトとして引き合わせておきながらそんな無責任な、とジョンは軽く呆れた。でも今なら分かる。彼をこういう人物だと一言で定義する者はフリークやらソシオパスといった表現を好み、それらを好まない者はもっぱら肩を竦めるのだ。
「僕には君が分からないよ、シャーロック」
スマートフォンを弄んでいるシャーロックの頭上から投げかけると、彼はふっと顎を持ち上げ、しかしジョンを視界に入れる前に元の位置に戻った。勝手に使っているのを非難されていると取ったのだろう、彼は書きかけのテキストの続きを一瞬で打ち込んで送信し、抜け目なくその履歴を削除してから、有難う、と手中の物を返してきた。それより先に言うことがあるんじゃないかと示唆すれば、何を、と首を傾げる。
「謝罪だよ」
「謝罪?」
「僕に断りもせず使った」
「それは理由がある」
シャーロックはくるりと椅子を回転させ、ジョンに向き直った。もちろん詫びを入れようとする顔つきでも態度でもない。理由が何であれ他人の物を勝手に使うのはよくないと、生まれも育ちも良い君は重々承知だろうが、僕が分からないと言ったのはそういう意味ではない。子供に言い聞かせるみたいな口調になるのは、そうでもしないと共同生活を送るにあたって最も必要な、寛大さを忘れてしまいそうになるからだった。
「なら何が言いたい? まさか僕という人間のことが分からないって、言葉通りの意味じゃないだろうな?」
「どうして怒ってるんだ?」
「怒ってなどいない」
いくら無表情でも言い方ひとつで感情は出るものだ。怒っていないならば機嫌が悪い。ふんと鼻を鳴らして、シャーロックは再び背を向けた。
「君がそんな下らないことをいちいち口にする奴だとしたら幻滅するよと思っただけだ」
「……君こそ口にしてるぞ」
だが彼は会話を打ち切ったつもりらしく、以降返事はかえってこなかった。毎回ではないけれど、頭蓋骨を唯一の話し相手として暮らしてきた期間が相当長いからか、はたまた生来の性格ゆえか、自分の言いたいことを言い他人から聞き出したいことを聞いてしまえば、それで用は済んだとばかりに耳を塞いでしまう。時間とメモリの浪費であると考えているに違いない。ただし内容に興味があれば俄然食いついてくるから、この瞬間を楽しんでいるのだろうかと疑問に思うことはまずない。付き合いやすいところもなくはないのだ。
取り戻したスマートフォンをポケットに入れる。いくらパスワードを変えても無意味で、ロックをかけること自体をやめようかと考えたりもする。落としたときのために一応かけておいてはいるけれど。
しばらく図書館で借りてきた本を静かに読み耽り、心地よい眠気が頭を支配し始めた頃、ジョンはぐるりと部屋を見渡し、
「おやすみ、シャーロック」
何やら沈思黙考している彼に呼びかけた。
「ああ、おやすみ」
よほど集中してさえいなければ挨拶はきちんと返してくるのがおかしく、ひとり階段をのぼりながら苦笑を漏らした。
作品名:Sherlock小ネタ2 作家名:マリ