はじまりののぞみ
何故ああも強い志を持てるのだろう、――決断することにためらいは生まれないのだろうか。
(私は)
(―――私は、ためらう。いつでも、決断した次の瞬間にまた何回でも同じことを躊躇うだろう。……私はいつも、それを繰り返す)
おもえば人生の中で。あの幸せな世界の中で、「決断する」ことというもののいかに少なかったことだろう。
たとえ、『人生を左右する決断』などと大層なことを言おうも、たかが高校、たかが大学。たかが、就職。既に誰かが作り上げた奔流の一端、どれかひとつを選んで泳ぐふりをしている群れの中の小魚。『道無き道』だとて確かに道であるのと同じに。
どれも安全を約束された無難な選択肢。
自分だけならともかく、他人の人生をも変えてしまう選択は、如何せん少女の華奢な肩には重すぎる代物だ。
答えを強く迫られている訳ではない。
彼女が選ばずとも、彼女以外の誰かがきっとなにかを選んでくれる。何故なら彼女の周りにいる、大層頼りになる彼らは彼女になにかを強いることなど殆ど望んではいないのだから。しかし。
(私は、選ばなくてはならない)
――ほかならぬ彼女自身が。
(神子として選ばれた私はきっと、選ぶためにこそ選ばれたの、だから)
そう決断し、顔を上げたつかの間、彼女はまた迷う。
(本当に。そうなの? 私は、本当に選ばれた? そのために)
そう信じられるだけのなにかがあればいい。
確かなものがなにもないからこそ、神子としての自分を信用できないからこそ、彼女は。
◆◇◆◇◆
思えば彼女には痛みの記憶しかない。始まりから終わりまで、徹頭徹尾、痛みは彼女に付きまとう。
筋肉の、一度死に、新たにまた生まれるその痛み。身を守る為に振り下ろす剣のぶんの痛み。その度に悲鳴をあげそうになるこころの痛み。
柔らかだった手のひらに肉刺が出来た痛み。できて、次の日には潰れて血が流れた。
怯えて逃げて走った。姿の忌まわしいおかしなものは、どこまでも追ってきた。
舗装されていない道に転び、爪のあいだに入り込む土の欠片、砂利が手のひらを傷つける。
分かりやすい喪失に、迷いに、人の死に。
不安に、恐怖に、疲労することに、痛みを覚えた。
直裁的なそれ。
しかし今では、その痛みすらも懐かしくいとおしい。
少女が目を閉じると、そこには紅が見えた。くれないという色。
炎の色、赤い色。血液の色。
あたたかくて、強くて、やさしくて。それ故にかなしい人々が、すべて炎にからめとられる。肌を焼けつかせる痛みの記憶よりも絶望が深く胸を灼く。
涙など出ない。余計な水などどこにもない。すべてが紅。
先刻から降る雨など彼女の目に入らない。――雨が降っていたのだとしたら。
だとしたら雨はあの炎をたちどころに消してくれたに違いない。
炎は消えなかった。
炎はあの地にある、すべての大事なものを燃やし尽くした。
だからこそ雨など降っていない。降ったにしても役立たずの雨などいらない。
役に立たない涙は在り得ない。
(何故、私は)
少女は無意識のうちに剣をにぎった。
異界の果てで目覚めたとき、戦場に落ちていたものだ。誰か、戦死者の残したものなのかも知れず、また、彼女を呼んだと言う天神が与えたものなのかも知れないが――使いみちにさして変化が生まれるとは思えない。
全てが金属で作られた、装飾も殆ど無い無骨なかたまり。
しかし、傑物だった。華奢な少女にはたいそう重くて扱いにくくはあったのだが、振り回し、危なげに打ち下ろす彼女の児戯のごとき乱暴な戦いにも折れることなく、刃こぼれすること無く、変わらぬ力強さと確かさでもってともに在ってくれた。どこに行くにも手放せなかったそれは少女の数少ない拠り所だった。
少女はつよく剣をにぎった。
否。
少女の手は、剣の柄をにぎったつもりになっただけだった。
先ほどまで、確かに剣を佩いていたあたりに伸ばした手は、けれども虚しく空を切る。
予期せぬ空振りに少女は僅かによろめいたが、それを驚く余裕も無いのだろう。からっぽの手のひらを顔の高さに持ち上げた。
(何故私はここにいるんだろう、何故)
かるく手のひらを握ると僅かに痛みが走った。
しかし傷などどこにもありはしない。――当たり前だ、と少女は思う。傷を負ったのは決して自分ではなかったのだから。
痛みは無い。痛みなど無い。
あるのは少しかたくなった自分の手のひらだけだ。結局、じぶんひとりすら満足に守り通すことが出来なかった役立たず者の手だ。
人々は彼女を「救いの御手」の「白き神子」だと尊んだが、それならばこんな現状は在り得ない。
望まれて、呼ばれて、期待されて、守られて?
望んでくれた人、呼んでくれた人、期待してくれた人、守ってくれた人を失意のなかで死なせただけだ。
しかしあの時彼女にいったい何が出来ただろう? 彼女に出来たのはせいぜいが弱った怨霊を封じることくらいで、歴史についての知識も乏しければ――なにがしかの事情に詳しいわけでもない。
何処へ行くにも何をするにも人の手を借りずには出来ない彼女は結局のところ、保護してくれたひとたちの温情を有難く受け取り、大事に守られ、邪魔にならないように息をひそめるしかなかったのだ。
なにもかも仕方の無いことだった。
咎はおそらく誰にも無く、勿論誰も彼女を責めることは無い。しかし――事実として役立たずの神子は争いの世界から追い出された。
世界は役立たずの神子を不要だと宣言したにも等しく。
ただそれだけのこと。
(あの世界に、私という神子は要らない…)
少女はずるり、と足を軽く引き摺った。ぬかるんだ地面は理由も無く少女の足を重くする。
そう、
不要なのだ。
何の奇蹟もおこすことのない神子など、名前だけの存在で事足りる。……だが、名前だけの存在で何が守れるというのだろう。
どうせ神子のちからなどたかが知れている。
ならば、神子でなく。今ここに居る、ただの春日望美というにんげんならば――少なくともあの役に立たない神子などよりは。
残る結果は、もう少しはましなものだっただろうか。
……ましはましに違いない。
なんにせよ、今より悪い事態などそうないだろう。うつろに手のひらを見つめる少女は、殆ど無理矢理にそう思うことにした。
それなら、願うことはひとつだけだ。
神子になど頼らず、彼女はひとりの人間として、自分を助けてくれた人たちを助けに行かなくてはならない。
神子の力など信じない。あの場所では一個体の、春日望美の持つちからだけがわかりやすく、確かなものだ。その力の分だけならばきっとなにかを守ることが出来る。
守らなくてはならない。
もう、間に合わなくても良い。起こってしまったことは仕方の無いこと。
失ってしまったならば、さらにもうこれ以上は失わないようにするだけだ。
(私は)
少女は手のひらを強く握り締め、ようやくそうすることを思い出したようにゆっくりと瞬きをすると、すう、と小さく息を吸う。
睫毛の先から細かな露滴が転がり落ちていく。
いつの間にか、彼女のからだを濡らしていた雨はほのかになり、空気を湿らすだけの霧へと変わっていた。
(私は)
(―――私は、ためらう。いつでも、決断した次の瞬間にまた何回でも同じことを躊躇うだろう。……私はいつも、それを繰り返す)
おもえば人生の中で。あの幸せな世界の中で、「決断する」ことというもののいかに少なかったことだろう。
たとえ、『人生を左右する決断』などと大層なことを言おうも、たかが高校、たかが大学。たかが、就職。既に誰かが作り上げた奔流の一端、どれかひとつを選んで泳ぐふりをしている群れの中の小魚。『道無き道』だとて確かに道であるのと同じに。
どれも安全を約束された無難な選択肢。
自分だけならともかく、他人の人生をも変えてしまう選択は、如何せん少女の華奢な肩には重すぎる代物だ。
答えを強く迫られている訳ではない。
彼女が選ばずとも、彼女以外の誰かがきっとなにかを選んでくれる。何故なら彼女の周りにいる、大層頼りになる彼らは彼女になにかを強いることなど殆ど望んではいないのだから。しかし。
(私は、選ばなくてはならない)
――ほかならぬ彼女自身が。
(神子として選ばれた私はきっと、選ぶためにこそ選ばれたの、だから)
そう決断し、顔を上げたつかの間、彼女はまた迷う。
(本当に。そうなの? 私は、本当に選ばれた? そのために)
そう信じられるだけのなにかがあればいい。
確かなものがなにもないからこそ、神子としての自分を信用できないからこそ、彼女は。
◆◇◆◇◆
思えば彼女には痛みの記憶しかない。始まりから終わりまで、徹頭徹尾、痛みは彼女に付きまとう。
筋肉の、一度死に、新たにまた生まれるその痛み。身を守る為に振り下ろす剣のぶんの痛み。その度に悲鳴をあげそうになるこころの痛み。
柔らかだった手のひらに肉刺が出来た痛み。できて、次の日には潰れて血が流れた。
怯えて逃げて走った。姿の忌まわしいおかしなものは、どこまでも追ってきた。
舗装されていない道に転び、爪のあいだに入り込む土の欠片、砂利が手のひらを傷つける。
分かりやすい喪失に、迷いに、人の死に。
不安に、恐怖に、疲労することに、痛みを覚えた。
直裁的なそれ。
しかし今では、その痛みすらも懐かしくいとおしい。
少女が目を閉じると、そこには紅が見えた。くれないという色。
炎の色、赤い色。血液の色。
あたたかくて、強くて、やさしくて。それ故にかなしい人々が、すべて炎にからめとられる。肌を焼けつかせる痛みの記憶よりも絶望が深く胸を灼く。
涙など出ない。余計な水などどこにもない。すべてが紅。
先刻から降る雨など彼女の目に入らない。――雨が降っていたのだとしたら。
だとしたら雨はあの炎をたちどころに消してくれたに違いない。
炎は消えなかった。
炎はあの地にある、すべての大事なものを燃やし尽くした。
だからこそ雨など降っていない。降ったにしても役立たずの雨などいらない。
役に立たない涙は在り得ない。
(何故、私は)
少女は無意識のうちに剣をにぎった。
異界の果てで目覚めたとき、戦場に落ちていたものだ。誰か、戦死者の残したものなのかも知れず、また、彼女を呼んだと言う天神が与えたものなのかも知れないが――使いみちにさして変化が生まれるとは思えない。
全てが金属で作られた、装飾も殆ど無い無骨なかたまり。
しかし、傑物だった。華奢な少女にはたいそう重くて扱いにくくはあったのだが、振り回し、危なげに打ち下ろす彼女の児戯のごとき乱暴な戦いにも折れることなく、刃こぼれすること無く、変わらぬ力強さと確かさでもってともに在ってくれた。どこに行くにも手放せなかったそれは少女の数少ない拠り所だった。
少女はつよく剣をにぎった。
否。
少女の手は、剣の柄をにぎったつもりになっただけだった。
先ほどまで、確かに剣を佩いていたあたりに伸ばした手は、けれども虚しく空を切る。
予期せぬ空振りに少女は僅かによろめいたが、それを驚く余裕も無いのだろう。からっぽの手のひらを顔の高さに持ち上げた。
(何故私はここにいるんだろう、何故)
かるく手のひらを握ると僅かに痛みが走った。
しかし傷などどこにもありはしない。――当たり前だ、と少女は思う。傷を負ったのは決して自分ではなかったのだから。
痛みは無い。痛みなど無い。
あるのは少しかたくなった自分の手のひらだけだ。結局、じぶんひとりすら満足に守り通すことが出来なかった役立たず者の手だ。
人々は彼女を「救いの御手」の「白き神子」だと尊んだが、それならばこんな現状は在り得ない。
望まれて、呼ばれて、期待されて、守られて?
望んでくれた人、呼んでくれた人、期待してくれた人、守ってくれた人を失意のなかで死なせただけだ。
しかしあの時彼女にいったい何が出来ただろう? 彼女に出来たのはせいぜいが弱った怨霊を封じることくらいで、歴史についての知識も乏しければ――なにがしかの事情に詳しいわけでもない。
何処へ行くにも何をするにも人の手を借りずには出来ない彼女は結局のところ、保護してくれたひとたちの温情を有難く受け取り、大事に守られ、邪魔にならないように息をひそめるしかなかったのだ。
なにもかも仕方の無いことだった。
咎はおそらく誰にも無く、勿論誰も彼女を責めることは無い。しかし――事実として役立たずの神子は争いの世界から追い出された。
世界は役立たずの神子を不要だと宣言したにも等しく。
ただそれだけのこと。
(あの世界に、私という神子は要らない…)
少女はずるり、と足を軽く引き摺った。ぬかるんだ地面は理由も無く少女の足を重くする。
そう、
不要なのだ。
何の奇蹟もおこすことのない神子など、名前だけの存在で事足りる。……だが、名前だけの存在で何が守れるというのだろう。
どうせ神子のちからなどたかが知れている。
ならば、神子でなく。今ここに居る、ただの春日望美というにんげんならば――少なくともあの役に立たない神子などよりは。
残る結果は、もう少しはましなものだっただろうか。
……ましはましに違いない。
なんにせよ、今より悪い事態などそうないだろう。うつろに手のひらを見つめる少女は、殆ど無理矢理にそう思うことにした。
それなら、願うことはひとつだけだ。
神子になど頼らず、彼女はひとりの人間として、自分を助けてくれた人たちを助けに行かなくてはならない。
神子の力など信じない。あの場所では一個体の、春日望美の持つちからだけがわかりやすく、確かなものだ。その力の分だけならばきっとなにかを守ることが出来る。
守らなくてはならない。
もう、間に合わなくても良い。起こってしまったことは仕方の無いこと。
失ってしまったならば、さらにもうこれ以上は失わないようにするだけだ。
(私は)
少女は手のひらを強く握り締め、ようやくそうすることを思い出したようにゆっくりと瞬きをすると、すう、と小さく息を吸う。
睫毛の先から細かな露滴が転がり落ちていく。
いつの間にか、彼女のからだを濡らしていた雨はほのかになり、空気を湿らすだけの霧へと変わっていた。