Family complex -2.14-
Family complex
-2.14-
台所でビーフシチューの鍋をかき混ぜながら、菊はそわそわと時計を見上げた。
今日仕事の後に来るという連絡があったから、いつも通りならもうそろそろ彼が来るだろう。
いつもなら、食事の準備をあらかた済ませて仕事をしながら待っている事が多いのだが、今日はさすがにそんな気にはならなかった。
なぜなら、今日は2月14日。バレンタインデーである。
菊は、台所の隅に置いた箱にちらりと視線をやった。
お菓子作りはあまり得意な分野はないが、とりあえず今年も用意できた。
相手が喜ぶ顔を思い浮かべて、菊は頬を染める。
去年は自分の覚悟が定まっていなかったせいで悲しい思いもした。ギルベルトにもいらぬ心配をさせてしまったから、今年は良い一日になればいい。
その時、玄関先で物音がしたかと思うと戸が開く音がした。
帰ってきたのだろう。
すぐに出迎えたいのを我慢して、とりあえず火を消し、声が聞こえるまでじっと耐える。
あくまで普通に、いつも通りに。自分が、このイベントで年甲斐もなくはしゃいでいるのを悟られてはいけないのだ。
「ただいま!」
そうしているうちに、声が掛かる。菊は逸る気持ちを精一杯押し殺して、殊更ゆっくりと玄関へ出た。
「おかえりなさい」
玄関先で靴を脱いでいたギルベルトは、菊の顔を見るとにやっと笑った。
「おう、ただいま」
すでに顔中から「チョコレートは?」という無言の声が見えるようだ。
相変わらず分かりやすい男である。
菊は、わざと素知らぬふりで、いつもの通りにジャケットを受け取ると、ハンガーに掛けながら居間へと向かった。
「食事、もうすぐできますけどまだ早いですよね?」
「…お、おお…」
ちらりと後ろを振り返ると、面食らったような、それでいて少し残念そうな顔でギルベルトはこちらを伺っている。
「でしたら、先に…」
「菊」
「はい?」
名前を呼ばれて振り返ると、ギルベルトが真剣な顔でこちらを見ていた。
顔が少し赤いのは、外から帰ってきたばかりだからだろうか。
「俺、今年は誰にも貰ってねーぞ」
直球に言われて、菊は思わず息を呑んだ。
「義理も全部断ったんだかんな」
「…ギルベルト、さん」
ギルベルトはおもむろに菊の腕を掴む。そして、ポケットから何かを取り出すと、それを握らせた。
「だから、お前が全部責任とれよな」
そう言い放つと、ギルベルトは顔を真っ赤にして居間へと行ってしまった。
手を開くと、握らされたものはチョコレートの箱のようだった。
小さいものではあるが、きちんと包装されている、所謂バレンタインデー用のものだ。
それを見て菊は慌てて居間へと向かった。
「ギルベルトさん」
ギルベルトはこちらへ背を向けて、座り込んでいた。
「…チョコレート、買って下さったんですか」
菊がその隣りに腰を下ろしながらそう訊くと、ギルベルトは顔を背ける。
「…当たり前だろ。バレンタインなんだし」
コンビニの奴で悪いけど、と小さな声で言う声が愛おしくて、菊はその肩へそっと寄り添うように身体を預けた。
「ありがとうございます…嬉しい」
そう言うと、そうかよ、という答えが返ってくる。
顔が真っ赤なのは、もう寒さだけのせいではないだろう。
彼がコンビニでどういう顔をしながらこれを買ったのかと思うと、菊の心はいっぱいになる。
そして、こんなやさしい人を焦らそうとしてしまった自分がとても恥ずかしくなった。
「今年は、誰にも貰わなかったんですね」
「…おう」
「責任、取りますね」
我ながらひどく恥ずかしい台詞が出た。
顔がかっと熱くなって思わず俯くと、力強い腕が肩に回される。
ギルベルトの使う整髪剤の匂いと、特有の体臭のようなものが混ざり合った香りが鼻孔に触れて、菊は身体の奥が震えるような感覚を覚えた。
どうしようもなく自分が彼を欲しているのだと痛感するのはこういうときだ。
そうしてどちらからともなく顔を近づけ、唇を合わせる。一度目は軽く。
唇を離して目を開くと、ギルベルトの瞳がじっとこちらを見ていた。
熱を孕んだその視線に焼かれるような気分を味わいながら、菊は瞳を閉じる。
次はきっと深いキスだ。そっと首に腕を回し、ギルベルトの気配を紙一枚の距離で感じていた時だった。
インターフォンが鳴らされたかと思うと、玄関の開く音がする。
「こんばんは!菊さん、いらっしゃいますか!」
二人がそのまま固まっていると、家に女性の高い声が響き渡った。
「エリザベータさん…?」
「菊さん、」
無視しろと無茶にも程があることを言うギルベルトを押しのけ、なんとか菊が玄関に出るとそこにいたのは、ギルベルトの姉のエリザベータだった。
「どうなさったんですか突然」
「菊さん…」
エリザベータは菊の顔を見た瞬間に、顔をくしゃっと崩す。見れば服はこの寒空の下セーターだけで、上着も着ていないようだった。こんな薄着でここまで来たのだろうか。
「とりあえず上がってください。上着はどうしたんです? 冷えきっているじゃありませんか」
「菊さあん、」
菊が思わず肩に手をかけると、エリザベータはそこで菊に抱きつくようにして堰を切ったようにぽろぽろと涙をこぼし始めた。
-2.14-
台所でビーフシチューの鍋をかき混ぜながら、菊はそわそわと時計を見上げた。
今日仕事の後に来るという連絡があったから、いつも通りならもうそろそろ彼が来るだろう。
いつもなら、食事の準備をあらかた済ませて仕事をしながら待っている事が多いのだが、今日はさすがにそんな気にはならなかった。
なぜなら、今日は2月14日。バレンタインデーである。
菊は、台所の隅に置いた箱にちらりと視線をやった。
お菓子作りはあまり得意な分野はないが、とりあえず今年も用意できた。
相手が喜ぶ顔を思い浮かべて、菊は頬を染める。
去年は自分の覚悟が定まっていなかったせいで悲しい思いもした。ギルベルトにもいらぬ心配をさせてしまったから、今年は良い一日になればいい。
その時、玄関先で物音がしたかと思うと戸が開く音がした。
帰ってきたのだろう。
すぐに出迎えたいのを我慢して、とりあえず火を消し、声が聞こえるまでじっと耐える。
あくまで普通に、いつも通りに。自分が、このイベントで年甲斐もなくはしゃいでいるのを悟られてはいけないのだ。
「ただいま!」
そうしているうちに、声が掛かる。菊は逸る気持ちを精一杯押し殺して、殊更ゆっくりと玄関へ出た。
「おかえりなさい」
玄関先で靴を脱いでいたギルベルトは、菊の顔を見るとにやっと笑った。
「おう、ただいま」
すでに顔中から「チョコレートは?」という無言の声が見えるようだ。
相変わらず分かりやすい男である。
菊は、わざと素知らぬふりで、いつもの通りにジャケットを受け取ると、ハンガーに掛けながら居間へと向かった。
「食事、もうすぐできますけどまだ早いですよね?」
「…お、おお…」
ちらりと後ろを振り返ると、面食らったような、それでいて少し残念そうな顔でギルベルトはこちらを伺っている。
「でしたら、先に…」
「菊」
「はい?」
名前を呼ばれて振り返ると、ギルベルトが真剣な顔でこちらを見ていた。
顔が少し赤いのは、外から帰ってきたばかりだからだろうか。
「俺、今年は誰にも貰ってねーぞ」
直球に言われて、菊は思わず息を呑んだ。
「義理も全部断ったんだかんな」
「…ギルベルト、さん」
ギルベルトはおもむろに菊の腕を掴む。そして、ポケットから何かを取り出すと、それを握らせた。
「だから、お前が全部責任とれよな」
そう言い放つと、ギルベルトは顔を真っ赤にして居間へと行ってしまった。
手を開くと、握らされたものはチョコレートの箱のようだった。
小さいものではあるが、きちんと包装されている、所謂バレンタインデー用のものだ。
それを見て菊は慌てて居間へと向かった。
「ギルベルトさん」
ギルベルトはこちらへ背を向けて、座り込んでいた。
「…チョコレート、買って下さったんですか」
菊がその隣りに腰を下ろしながらそう訊くと、ギルベルトは顔を背ける。
「…当たり前だろ。バレンタインなんだし」
コンビニの奴で悪いけど、と小さな声で言う声が愛おしくて、菊はその肩へそっと寄り添うように身体を預けた。
「ありがとうございます…嬉しい」
そう言うと、そうかよ、という答えが返ってくる。
顔が真っ赤なのは、もう寒さだけのせいではないだろう。
彼がコンビニでどういう顔をしながらこれを買ったのかと思うと、菊の心はいっぱいになる。
そして、こんなやさしい人を焦らそうとしてしまった自分がとても恥ずかしくなった。
「今年は、誰にも貰わなかったんですね」
「…おう」
「責任、取りますね」
我ながらひどく恥ずかしい台詞が出た。
顔がかっと熱くなって思わず俯くと、力強い腕が肩に回される。
ギルベルトの使う整髪剤の匂いと、特有の体臭のようなものが混ざり合った香りが鼻孔に触れて、菊は身体の奥が震えるような感覚を覚えた。
どうしようもなく自分が彼を欲しているのだと痛感するのはこういうときだ。
そうしてどちらからともなく顔を近づけ、唇を合わせる。一度目は軽く。
唇を離して目を開くと、ギルベルトの瞳がじっとこちらを見ていた。
熱を孕んだその視線に焼かれるような気分を味わいながら、菊は瞳を閉じる。
次はきっと深いキスだ。そっと首に腕を回し、ギルベルトの気配を紙一枚の距離で感じていた時だった。
インターフォンが鳴らされたかと思うと、玄関の開く音がする。
「こんばんは!菊さん、いらっしゃいますか!」
二人がそのまま固まっていると、家に女性の高い声が響き渡った。
「エリザベータさん…?」
「菊さん、」
無視しろと無茶にも程があることを言うギルベルトを押しのけ、なんとか菊が玄関に出るとそこにいたのは、ギルベルトの姉のエリザベータだった。
「どうなさったんですか突然」
「菊さん…」
エリザベータは菊の顔を見た瞬間に、顔をくしゃっと崩す。見れば服はこの寒空の下セーターだけで、上着も着ていないようだった。こんな薄着でここまで来たのだろうか。
「とりあえず上がってください。上着はどうしたんです? 冷えきっているじゃありませんか」
「菊さあん、」
菊が思わず肩に手をかけると、エリザベータはそこで菊に抱きつくようにして堰を切ったようにぽろぽろと涙をこぼし始めた。
作品名:Family complex -2.14- 作家名:青乃まち