MOMENT
白石蔵ノ介は、目の前で机に向かってうんうん唸っている後輩を睨みつけながら考えていた。
どうすればいち早くこの場を去れるだろうか。いくら考えてもその答えは導き出せない。
そもそも今月、自分は中学校を卒業したのだ。3月末までは中学生です、生徒手帳が身分証明になります、とは確かに言われたが、後輩の面倒まで見なければならない謂れはないはずだ。
「うーーーーーー」
遠山が睨めっこを挑んでいるのは、学年末テストの問題だった。全体的に惨憺たる結果だったが、特にひどい数学の問題を再度やらされているところだった。
「金ちゃん」
「っあー、もう! わからん! 白石、ワイわからへん!」
顔を上げてぐしゃぐしゃと髪を掻き混ぜる遠山を眺めながら白石はいつも通りのトーンで返す。
「何がわからんねん」
「それがわからへん!」
「あのなぁ金ちゃん……いや、まあ、ええけどな。何がわからんのかわかるぐらいなら春休みまで学校来て勉強せぇへんわな」
「当たり前やろ!」
わかりきってはいたが、遠山に皮肉なんて通じない。
白石はため息をつくと、視線を窓の外に移した。3階の窓からは塀に囲まれたテニスコートもよく見える。部員に何やら指示を出している財前の姿が見えて、何だか不思議と面白く思えてきて口元が緩む。
「部長って、似合わへんな、あいつ」
「ん? 光か? でも光コワイねんで。すぐ毒手出してきよる。白石より手ぇ出るん早いで」
「はは。毒手ねぇ」
「はよ終わらさな部活行かれへんで」
左手をかざして必死に話す遠山の頭をぽんぽん叩き解答を促すと、また苦しそうに呻きながらも手元のプリントに目を落とした。
「もういやや、部活行く!」
「せやからコレ終わらせてからや!」
発作のように立ち上がった遠山の肩を押さえつけてもう一度椅子に座らせる。遠山は唇を尖らせて、白石の鬼! アホ! キチク! と思いつく限りの罵倒の言葉を並べた。ちょっと金ちゃんそんな言葉どこで覚えてきたんや、と青くなるも、遠山は意に介さない様子でプリントを睨みつけていた。
「白石、わからん」
「はいはい、せやからここはな……」
白石は複雑な図形に指を這わせながら、頭では別のことを考えていた。
ことの始まりは、一本の電話だった。
3月17日、午前10時17分。
携帯電話が着信を知らせる音。ディスプレイを確認して、白石は眉を顰めた。その着信は予想していた人物からではなく、恩師とも言うべきテニス部の顧問・渡邊オサムからのものだった。
白石は怪訝に思いながらも、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
「おーぶちょぉー! おはよーさん!」
「オサムちゃん、声デカイわ」
「そーか? ハッハ!」
「どないしてん? 卒業祝いに何か買うてくれるん?」
「えー? こないだ一人一個コケシやったやろ。はな○るうどん連れてったったし」
「……別に期待してへんからええけどな」
白石は薄ら寒い笑みを浮かべて言ったが、電話の向こうの渡邊がそれに気付くはずもなく、いつもの明るい調子で話を続ける。
「ほんでな、ちょっと頼みたいことあんねん」
その頼みごとこそが、“これ”だった。
遠山のあまりの成績の悪さを見かねた担任との話し合いで、テニス部の顧問である渡邊が指導せねばならなくなったらしい。しかし渡邊がおとなしく勉強など見てやれるわけもなく、こうしてかつての部長である白石に白羽の矢が立ったのだった。まったく光栄でも何でもない指名に白石はただ無表情に渡邊の話を聞いていたが、かわいい後輩の遠山を放っておくこともできず、承諾した。
3月17日は何の日か、それは十分にわかっていた。
渡邊との通話を終了した白石は、発信履歴を開いた。
「……あ、ケンヤ? おはよ」
◆ ◆ ◆
3月17日。何の日だったかな。いや、忘れるわけもない。自分の誕生日なのだから。
謙也はベンチに座って、後輩たちがテニスに励む姿をぼんやりと眺めていた。ガットがボールを軽快に弾く音がひどく懐かしい。受験やら卒業式やら何かと忙しい日々を送っていたので、最近テニスからは離れていた。
ふと傍にやってきた財前が謙也を見下ろして言う。
「謙也さん、いつまでおるんですか」
「……約束しとったやつの用事終わるまで」
目の前のコートを行き交うボールを目で追いながら答えると、財前ははあ、今日中に終わるんすか、と呆れたように呟いた。
「やって、金ちゃんすよ。絶対無理すわ」
「まあ……金ちゃんには悪いけどフォローできひんわ」
謙也は引き攣った笑みを浮かべ、財前は相変わらず無表情に謙也を見ていた。
「何や、お前も練習せえよ」
「俺は今部員の練習見てるんで」
「いやいや、じゃあ俺見てないでコート見ぃや」
「……ちっ」
「ちっ!?」
「謙也さん、何なら打ってってもええですよ。俺と打ちます?」
財前は先ほどの舌打ちなどなかったかのように、ころりと話題を変えた。謙也は少し悩んだものの、小さく唸って微笑んだ。
「……すまんけど、今日はそんな気分やないからええわ、おおきにな」
「……ほならええですわ」
もしかしたら財前は心配してくれていたのだろうか。
そう思ったものの直接聞けず、また聞いたとしてもいつもの憎まれ口で返されるのだろう、そう思いながらコートに入っていく財前の背を見守った。
謙也は、今朝の電話を思い出していた。
「ケンヤ、ごめん、今日ちょと、金ちゃんの面倒見なあかんなった。せっかくデートやったのに、ごめんな。終わったらすぐ連絡するから」
話を聞いて、またオサムちゃんのムチャ振りか、と思った。せっかくの誕生日をこんなことにした渡邊のことは全力で恨んだが、遠山に罪はない。責めることも恨むこともできないし、言うまでもなく謙也も遠山が大好きだ。助けてやりたい。
「おお、ええよ、気にすんな」
謙也はいつものトーンで笑って言った。白石は申し訳なさそうにごめん、ほな行ってくるから、とだけ言うと電話を切った。
本心など、言えるわけがないじゃないか。
謙也は顔を歪めて携帯電話のディスプレイを見つめた。
結局、部活が終わっても遠山と白石は出てこなかった。遠山の教室にはまだ明かりがついている。
軽口を叩きながら部員たちを見送った後も、謙也はベンチに座っていた。塀のせいで校舎が見えない位置なので、数分に一度、ベンチを離れて隠れるようにしながら3階の教室の窓を窺った。まだ明かりはついていた。
「行ったらええやないですか。教室」
声がした方に目を向けると、テニスバッグを背負った制服姿の財前が立っていた。財前は静かに謙也の座っているベンチに歩み寄り、その傍らで足を止めた。
「……気ぃ散るやろ。俺、うるさいしな!」
にかっと笑って見せると、財前も困ったように、ほんの少し笑った気がした。周囲は暗くなりかけていたし、あまりに小さな変化だったので、気のせいかもしれないが。
「財前もはよ帰りや」
「謙也さん」
「ん?」
「今日会うと思てへんかったから何も用意してへんけど、誕生日おめでとうございます」
どうすればいち早くこの場を去れるだろうか。いくら考えてもその答えは導き出せない。
そもそも今月、自分は中学校を卒業したのだ。3月末までは中学生です、生徒手帳が身分証明になります、とは確かに言われたが、後輩の面倒まで見なければならない謂れはないはずだ。
「うーーーーーー」
遠山が睨めっこを挑んでいるのは、学年末テストの問題だった。全体的に惨憺たる結果だったが、特にひどい数学の問題を再度やらされているところだった。
「金ちゃん」
「っあー、もう! わからん! 白石、ワイわからへん!」
顔を上げてぐしゃぐしゃと髪を掻き混ぜる遠山を眺めながら白石はいつも通りのトーンで返す。
「何がわからんねん」
「それがわからへん!」
「あのなぁ金ちゃん……いや、まあ、ええけどな。何がわからんのかわかるぐらいなら春休みまで学校来て勉強せぇへんわな」
「当たり前やろ!」
わかりきってはいたが、遠山に皮肉なんて通じない。
白石はため息をつくと、視線を窓の外に移した。3階の窓からは塀に囲まれたテニスコートもよく見える。部員に何やら指示を出している財前の姿が見えて、何だか不思議と面白く思えてきて口元が緩む。
「部長って、似合わへんな、あいつ」
「ん? 光か? でも光コワイねんで。すぐ毒手出してきよる。白石より手ぇ出るん早いで」
「はは。毒手ねぇ」
「はよ終わらさな部活行かれへんで」
左手をかざして必死に話す遠山の頭をぽんぽん叩き解答を促すと、また苦しそうに呻きながらも手元のプリントに目を落とした。
「もういやや、部活行く!」
「せやからコレ終わらせてからや!」
発作のように立ち上がった遠山の肩を押さえつけてもう一度椅子に座らせる。遠山は唇を尖らせて、白石の鬼! アホ! キチク! と思いつく限りの罵倒の言葉を並べた。ちょっと金ちゃんそんな言葉どこで覚えてきたんや、と青くなるも、遠山は意に介さない様子でプリントを睨みつけていた。
「白石、わからん」
「はいはい、せやからここはな……」
白石は複雑な図形に指を這わせながら、頭では別のことを考えていた。
ことの始まりは、一本の電話だった。
3月17日、午前10時17分。
携帯電話が着信を知らせる音。ディスプレイを確認して、白石は眉を顰めた。その着信は予想していた人物からではなく、恩師とも言うべきテニス部の顧問・渡邊オサムからのものだった。
白石は怪訝に思いながらも、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
「おーぶちょぉー! おはよーさん!」
「オサムちゃん、声デカイわ」
「そーか? ハッハ!」
「どないしてん? 卒業祝いに何か買うてくれるん?」
「えー? こないだ一人一個コケシやったやろ。はな○るうどん連れてったったし」
「……別に期待してへんからええけどな」
白石は薄ら寒い笑みを浮かべて言ったが、電話の向こうの渡邊がそれに気付くはずもなく、いつもの明るい調子で話を続ける。
「ほんでな、ちょっと頼みたいことあんねん」
その頼みごとこそが、“これ”だった。
遠山のあまりの成績の悪さを見かねた担任との話し合いで、テニス部の顧問である渡邊が指導せねばならなくなったらしい。しかし渡邊がおとなしく勉強など見てやれるわけもなく、こうしてかつての部長である白石に白羽の矢が立ったのだった。まったく光栄でも何でもない指名に白石はただ無表情に渡邊の話を聞いていたが、かわいい後輩の遠山を放っておくこともできず、承諾した。
3月17日は何の日か、それは十分にわかっていた。
渡邊との通話を終了した白石は、発信履歴を開いた。
「……あ、ケンヤ? おはよ」
◆ ◆ ◆
3月17日。何の日だったかな。いや、忘れるわけもない。自分の誕生日なのだから。
謙也はベンチに座って、後輩たちがテニスに励む姿をぼんやりと眺めていた。ガットがボールを軽快に弾く音がひどく懐かしい。受験やら卒業式やら何かと忙しい日々を送っていたので、最近テニスからは離れていた。
ふと傍にやってきた財前が謙也を見下ろして言う。
「謙也さん、いつまでおるんですか」
「……約束しとったやつの用事終わるまで」
目の前のコートを行き交うボールを目で追いながら答えると、財前ははあ、今日中に終わるんすか、と呆れたように呟いた。
「やって、金ちゃんすよ。絶対無理すわ」
「まあ……金ちゃんには悪いけどフォローできひんわ」
謙也は引き攣った笑みを浮かべ、財前は相変わらず無表情に謙也を見ていた。
「何や、お前も練習せえよ」
「俺は今部員の練習見てるんで」
「いやいや、じゃあ俺見てないでコート見ぃや」
「……ちっ」
「ちっ!?」
「謙也さん、何なら打ってってもええですよ。俺と打ちます?」
財前は先ほどの舌打ちなどなかったかのように、ころりと話題を変えた。謙也は少し悩んだものの、小さく唸って微笑んだ。
「……すまんけど、今日はそんな気分やないからええわ、おおきにな」
「……ほならええですわ」
もしかしたら財前は心配してくれていたのだろうか。
そう思ったものの直接聞けず、また聞いたとしてもいつもの憎まれ口で返されるのだろう、そう思いながらコートに入っていく財前の背を見守った。
謙也は、今朝の電話を思い出していた。
「ケンヤ、ごめん、今日ちょと、金ちゃんの面倒見なあかんなった。せっかくデートやったのに、ごめんな。終わったらすぐ連絡するから」
話を聞いて、またオサムちゃんのムチャ振りか、と思った。せっかくの誕生日をこんなことにした渡邊のことは全力で恨んだが、遠山に罪はない。責めることも恨むこともできないし、言うまでもなく謙也も遠山が大好きだ。助けてやりたい。
「おお、ええよ、気にすんな」
謙也はいつものトーンで笑って言った。白石は申し訳なさそうにごめん、ほな行ってくるから、とだけ言うと電話を切った。
本心など、言えるわけがないじゃないか。
謙也は顔を歪めて携帯電話のディスプレイを見つめた。
結局、部活が終わっても遠山と白石は出てこなかった。遠山の教室にはまだ明かりがついている。
軽口を叩きながら部員たちを見送った後も、謙也はベンチに座っていた。塀のせいで校舎が見えない位置なので、数分に一度、ベンチを離れて隠れるようにしながら3階の教室の窓を窺った。まだ明かりはついていた。
「行ったらええやないですか。教室」
声がした方に目を向けると、テニスバッグを背負った制服姿の財前が立っていた。財前は静かに謙也の座っているベンチに歩み寄り、その傍らで足を止めた。
「……気ぃ散るやろ。俺、うるさいしな!」
にかっと笑って見せると、財前も困ったように、ほんの少し笑った気がした。周囲は暗くなりかけていたし、あまりに小さな変化だったので、気のせいかもしれないが。
「財前もはよ帰りや」
「謙也さん」
「ん?」
「今日会うと思てへんかったから何も用意してへんけど、誕生日おめでとうございます」