はつ恋
白く透き通る首筋から一定の間隔で浮き出る背骨をうつくしく思った。
とおい昔に羽が生えていたのだという話をほんとうだと思わせるようなその肩甲骨に触れたい。触れて、細い腰に伸ばした腕で、そのまま抱き締めてしまえたら、おまえはいったいどういう顔をするんだろう。
はじめてその男に出逢ったときのことを、ワシは今でもつよく憶えている。
それほどに彼は強烈だった。何者をも寄せ付けぬ、その瞳。骨張った体つきが余計に他を排除するように尖って見えて、わしは背筋が震えるのを感じた。それまでの人生でワシは、自分の意思とは関係なく、色々な場所へ連れてゆかれ、たくさんの武将たちに会い、人の奥深さをしったつもりでいたが、こんな感覚ははじめてだった。病的なまでに白い顔がゆらりとこちらを向き、冷たい瞳が自分を見据えたとき、どこか体の奥の奥、まだ自分でも触れたことのないどこかやわらかな部分が、熱く燃え滾ってひどくゆれるのを感じた。眩暈がした。色の抜けたような彼の薄いくちびるが「竹千代、と申したか」とうごいたとき、世界がまっしろに染まった。幼いワシにはまだわからないことだったが、それは確かに恋、だった。
彼は名を三成といった。新入りのワシは会話をすることさえままならないほど、当時の彼は豊臣の中でも重臣だった。なにしろ「豊臣の左腕」などと呼ばれていたほどだ。彼が豊臣に恋慕にも似た感情を抱いていることに気づくのは容易なことだった。彼はそれを隠そうともしていなかったし、なにより彼の鋭く鋭利な瞳は秀吉公を見るときだけ、うっすらとやわらいだ。目元を染めて妄信的に「秀吉様」の言うことだけに耳を傾ける彼の姿は、ワシのどこかしらをいつもぎゅうと締め付けた。その姿を見たくないと思いながら、ワシは何故自分がそういった感情を持つのかがわからなかった。ただ、秀吉公の前だけで見せるその笑みを、自分にも向けて欲しいとつよく願った。染まってゆく頬を正面から見たいと思った。彼の心のどこかしらでいい、そこに己の存在をいれられはしないかと、ワシは一心に働いた。織田がほろび、天下は豊臣によって動いていた。そのことは彼をひどく喜ばせ、そんな彼の姿を見ることはワシの喜びでもあった。出逢ったころ「竹千代」と呼ばれた男はすでに子供ではなく、「家康」という1人の男になっていた。
あれは秀吉公に命じられ、大阪からは少し遠く離れた場所で起きた一揆を抑えに行ったときのことだったと思う。ワシはそのころには体も大きく成長し、それまでの働きもあって、豊臣の一家臣として認められるようになっていた。だからだろう、その仕事を行うにあたって、行動をともにするように言われた人物は、はじめて出逢ったときからずっと、長きに渡ってあこがれつづけた石田光成その人だった。その命を受け、言葉も出ずにかたまっているワシを振り返り、三成はひそやかにくちびるを吊り上げて微笑んだ。それがどんなにか、ワシの心を揺さぶったか、三成はきっとしることはないだろう。
城以外の場所で三成と過ごすのははじめてではなかったが、それはワシが下っ端だったときの話だ。三成と会話ができるようになってから、こんなにも近い場所で過ごすことなどなかった。当然ながらワシは、夜になってもまったく眠れなかった。都合のよい妄想ばかりが膨らんで、体が熱くなる。ワシも男の子ということだな、と苦笑しつつ、陣の外に出て、頭を冷やすついでに見張りを労おうと閨を出てゆくと、寝巻き代わりの浴衣に羽織をゆるく纏った三成が、松明のあかりに照らされて立っていた。白い頬が橙にうすく染まっている。鼓動が速くなってゆくのを感じながら、声をかけるべきか否か迷っていると、ワシがいることに気づいたらしい三成が、「どうした、眠れないのか」と先に声をかけてきた。しずかな音色に、見透かされているような気がして動揺しながらも「ああ、まあ、そんなところだ」と作り笑顔で答える。そんなワシを見て、三成は声を出さずに笑い「大方、戦場の空気に慣れんとでも言うんだろう、家康」相変わらずの甘さだな、死ぬぞ、と吊り上った瞳でわしのほうを流し見た。
「三成、」
「見ろ、家康、月が綺麗だぞ」
今宵は満月のようだと彼は微笑んだまま、そうと上を見上げる。その先にはまっくろな空と、穴のようにぽっかりと浮かぶ白い月がたしかにあって、その真下には細く、頼りなくも見える三成のうなじが、黒と橙の中でゆらりと浮かんでいた。ごくり、と生唾を呑む。
白く透き通る首筋から一定の間隔で浮き出る背骨をうつくしく思った。
とおい昔に羽が生えていたのだという話をほんとうだと思わせるようなその肩甲骨に触れたい。触れて、細い腰に伸ばした腕で、そのまま抱き締めてしまえたら、おまえはいったいどういう顔をするんだろう。
思ってしまえば躊躇はなかった。育ちに育ったワシの腕は三成を抱き締めれば離さない程度の力を持っていたし、三成に触れたい、その表情をすぐそばで、いちばん近くで見ていたいという感情はワシに選択の余地を与えなかった。
伸びたワシの指先が三成の腕を引き寄せて、己が胸にすっぽりと彼を包んでしまったとき、彼はひどく驚いた顔をした。しかしそれは同時に、納得したような、泣きそうな表情でもあった。
「…どうした、家康」
「………」
「私を抱きたいのではないのか」
「………」
「ちがうのか」
「…嫌がらないのだな」
「なんだ、懺滅されたかったのか」
「いやちがうが」
「…慣れているんだ」
そういう目で私を見てくる輩には。だから、驚かない。そう言って三成はワシをまっすぐにみつめた。その瞳に、今まで見たことのない、一種の諦めを見て、ワシは自分の呼吸が止まってしまう気がした。呼吸が、できない、そう感じた。三成は続けて、まあおまえまでそうとは思わなかったがな、大きくなったものだ…竹千代、とあっさりとした口調で言い、そしてワシを見上げて、なんて顔してる、なんでおまえが泣きそうになってるんだ、と呆れたように笑った。ワシは、どうしていいかわからなくなって、きつく抱き締めていた腕を、指を、三成からそっと離した。ほんとうに涙がこぼれてしまいそうだった。ワシは、何を三成にもとめていたんだろう。それすら今はわからない。
そのまま俯いたままでいるわしの耳に、三成のこぼした嘆息が入り込んできた。
「…家康」
「………」
「なんとか言え、間抜けが。今日のことは忘れてやる。ガキのやることに一々腹を立てても仕様が無いからな。欲が溜まっているなら、この戦が終わったら形部にでも良い女を紹介させてやる。だからもう寝ろ」
「三成」
「なんだ」
「女は要らん」
「男がいいのか。ならそっちを探してやる。だから寝ろ」
「いや…三成、ワシは……」
「なんなんだ、余り我侭を言うと懺滅するぞ」
「いや、ワシは…ワシは、男も女も要らんのだ、ただその、ワシは……」
ワシは、三成、おまえが欲しい。