吾輩は猫である
1
――春眠、暁をおぼえず。
この季節は、眠くなっていけない。
芝生に寝転んで見上げた空には、雲ひとつない。
嗚呼――本日モ快晴ナリ。
こういう日は、職員室の壁に張り付いた行先予定表に「空が青いから……」と書いて、何処かにバックれてしまいたい気分だ。
まぁ、俺のサボリ癖は、今に始まったことじゃないか……ははは。
卒業式が近いせいもあるのだろう。
担任を持っていないことを理由に、半ばどうでもいいような雑用ばかりを押し付けられて、俺はひどく疲れていた。
――ったく……便利屋じゃねぇっつーの。
暖かな春の陽気に呑まれて、少しまどろんでしまったようだ。さっきまで、俺の腹を枕代わりにしてともに惰眠を貪っていた猫たちは、いつの間にか姿を消していた。
……ああ、そう言えば、今日は十五時から職員会議があるんだっけ。
メンドくさいったら、ありゃしない。
退屈な会議の席で眠気と戦うのはゴメンだが、遅刻して、教務主任にねちねちと小言を言われるのは、もっとゴメンだ。あのハゲ、いちいち言い方が嫌味ったらしいんだよな。
仕方がない。そろそろ行くとしますかね……。
俺は大きく伸びをして――そこで初めて、身体に広がる違和感に気付いた。
――なんだ、背中が伸びないぞ……?
両足を思いっきり伸ばしてみるが、これも様子がおかしい。
仕方がないので、勢いを付けて身体を横に転がすと、自分でも驚くほど軽く、くるりと反転した。
――なんだ、なんだ?
視界に飛び込んだ、自分の手を見て絶句する。
俺、いつからこんなに毛深くなったっけ……?
いや、これ……毛深いってレベルじゃねーだろ。
ふさふさしてるし、ひっくり返すと肉球があるし。
肉球、にくきゅう……?
――はっはっは。猫じゃあるまいし、何、寝ぼけてるんだよ……しっかりしろ、俺!
「にゃあっ!」
とっさに口から飛び出した声は、まるでドラ猫の鳴き声だった。
え……?
「――――んにゃぁぁぁ!?」
うん、そうか。分かった。
これは、夢だ……。
どうやら、俺は猫になった夢をみているようだ。
手……じゃなくて、前肢をじっと見つめる。
先端には鋭い爪が埋まっていた。
ぐっと力を込めると、鋭い爪が飛び出して、結構面白い。
それを出したり、引っ込めたりして、しばらくの間、楽しむ。
……いやいやいや、そうじゃなくて。
恐る恐る背後を振り返れば、俺の髪と同じ色をした長い尻尾が見えた。
ためしに神経を集中させて、振ってみる。
おっ……動いた、動いた。
「……にゃあ」
ウメさんも、ハナさんもいない。
鳴いているのは、紛れもなく俺。
首を振れば、視界の隅で長いヒゲが揺れる。
夢――じゃないよな。
どうやら本当に猫になっちまったらしい。
こりゃ、猫神様の呪いか?
うーん……参った。
給料日前だからって、ウメさんの餌ランクを下げたのがマズかったかな。
指がないので、頬をつねることはできない。
軽く爪を出して、顔を引っ掻いてみた。
「にゃっ……」
ちょっとだけ、痛かった。
* * *
「顔の舐め方、教えてさしあげましょうか?」
聞き覚えのある声とともに、背後に忍び寄った足音を捉えて、耳がぴくりと反応する。
俺は低く喉を鳴らしながら、慎重に振り返った。
最初に視界に飛び込んだのは、丁寧に磨かれた黒い革靴。
そのまま見上げれば、海外有名ブランドの高級スーツに身を包んだ大男が、腕を組んで立っていた。
吉羅――どうしてここに……?
「……ぷっ」
常に冷静沈着な星奏学院の理事長様は、俺の姿を見るなり端正な顔を歪めて、おもむろに噴き出した。
いつもながらに失礼なヤツだ。
「うにゃぁぁぁ!」
(何だよっ!)
「……これは傑作だ。アルジェントに言われて様子を見に来てみれば、本当に猫になっているとはね」
吉羅は笑いを噛み殺しながら、そう言った。
どうやらこいつには、俺が誰であるか分かるらしい。
「にゃぁ、にゃぁぁぁ!」
(吉羅、どういうことだ!)
「ああ、金澤さん。私の言葉は分かりますか?」
言葉の代わりに、俺はこくりと頷いた。
三十路を過ぎても妖精が見えるスーパーお坊ちゃま……妖精だけじゃなくて、猫とも会話ができるとは、おい、俺は今まで聞いてないぞ。
「結構。では簡潔に状況をお伝えいたしましょう。今の貴方には、アルジェント・リリの魔法が掛かっています」
「んにゃぁぁぁ?」
(何だって?)
正気を疑いたくなるような吉羅の言葉に、俺は頭上に生えた、尖った耳をぴくりと動かした。
「にゃっ、にゃぁ、みゃぁぁ」
(魔法? 何で俺に……?)
「理由なんて知りませんよ。何かおかしな願い事でもしたんじゃありませんか。まあ、時間の経過とともに消えゆく魔法でしょうから、保って一週間、といったところですかね……」
一週間――!?
一週間も俺に、猫として過ごせというのか!?
「うにゃぁあ、みゃあ!」
(ふざけるな、今すぐに解け!)
俺はぴょんぴょんと飛び跳ねて猛烈に抗議した。
着地の瞬間、スラックスの裾に爪を引っかけそうになり、真紅の瞳に睨みつけられる。
「残念ながらそれは叶わないそうです。あのイタズラ妖精は、後先考えないで行動しますからね。……私たちが学生の頃、連中に何をされたかを思い出せば、分かるでしょう?」
超強力目薬をはじめとした、数々の試作品……。
見るからに危険な香りを孕んだそれらの品物を前にした当時の俺は、適当な御託を並べては吉羅に押し付けて、被害を免れていたのだ。
そのツケが、こんな形で戻ってくるとは……。
俺は前肢を揃えて、ガックリと頭を落とした。
「金澤さんが猫になっている間の言い訳は、私の方で何とかしておきます。そうですね……出張にでも行ってもらいましょうか」
そりゃそうだ。
『――金澤先生は今日から猫になったため、しばらくの間、休職します』
なんて職員会議で報告しようものなら、即、病院行きは免れないだろう。
何処から漏れたのか……ただでさえ、三十路を越えたいいオトナが、妖精が見えるって噂を流されて、眉間に皺を寄せているんだ。
これ以上、笑いのネタを提供される必要はない。
「にゃっ……?」
首の後ろを摘まれたかと思うと、身体がふわりと宙に浮き上がった。
「みゃぁぁぁっ!」
(離せーっ!)
抵抗虚しく、そのまま吉羅の腕に抱かれて、喉元を撫でられる。
何とも言えないその感覚に、うっとりして思わず喉をゴロゴロと鳴らしてしまった。
そんな俺を見て、吉羅がにやりと笑う。
「……後で首輪をプレゼントしましょう。何色がいいですか」
鼻を鳴らして、俺はそっぽを向いた。
「まったく、可愛げのない猫ですね。ひとつ割り切って、気ままな猫ライフを堪能してはいかがですか」
ぽんと勢いよく宙に投げ出される。
俺はくるりと弧を描いて、芝生の上に着地した。
さすがは猫。と、妙な感心をしてみる。
「さて、一通り笑わせていただきましたので、私はこれで失礼します」