吾輩は猫である
そうか……今日は普通科二年の芸術選択授業がある日だ。
以前、日野は美術を選択していると聞いたから、屋外で絵を描いていたとしても何ら不思議じゃない。
一緒にいるということは、加地も美術を選択しているのだろう。
「あ……猫がいるよ。ふふっ、可愛いね」
俺の姿を捉えた加地が、爽やかな笑顔を浮かべる。
「あっ、ヒロさん――!?」
日野は俺を見るなり小走りで駆け寄ると、胸元に抱き上げた。不安と喜びが入り交じった表情に胸がちくりと痛む。
「もうっ……すっごく探したんだよ! お昼は何処に行ってたの? ……でも見つかって良かった」
「あれ? この猫、日野さんの知り合い?」
「うん、知り合いって言うか……怪我しちゃったから一時的にうちで飼っているの」
「へぇ、そうなんだ……」
加地は俺の存在に興味を持ったようだ。いや、日野が可愛がっている俺の存在に、か。
「――そうだ、日野さん。せっかくだから、この猫をモデルにしようか?」
なんて勝手なことを抜かしてきやがった。
「えっ? でもっ……」
「ね、厭がっていないみたいだし、いいよね」
言いながら加地は俺の頭を撫でる。引っ掻いてやりたいのはやまやまだったが、日野の手前、おとなしくなすがままにされていた。
「……ヒロさん、ちょっとモデルにしてもいい?」
地面にそっと降ろされ、喉元を軽く撫でられる。
日野は俺をどんな風に描くのだろう……?
どうせなら猫ではなく人間の姿の時に描いて欲しい気もするが、それはそれで照れくさいな。
「みゃぉ」
俺は短く鳴いた。
「……うん、いいって」
「すごいな。日野さん、猫の言葉が分かるの? 金澤先生みたいだね」
「やだっ……何となく、だよ」
加地にとっては、日野の言動のすべてが崇拝の対象なのだろう。
うっすらと頬を染めて口籠もる日野を微笑ましく思いながら、俺は居心地の良さそうな芝生を見つけると適当に寝転がった。
無論、俺にモデルの経験などない(若い頃、雑誌のモデルにスカウトされたことは、何度かあるが……)から正しいポーズなんて分からない。
――それ以前に日野たちは、よもや自分の言葉が俺に通じているとは思っていないだろう。
適当でいいんだよ、適当で。
「ヒロさん……そのまま動かないでね」
日野は油絵、加地は鉛筆デッサン。
二人は仲良く肩を並べて(とは言ってもイーゼルや道具があるからある程度の距離は取っているが)俺を含めた風景画を思い思いに描き始める。
指を動かしながらも、時折、ささやかな言葉を交わしては、無邪気に笑い合っていた。
――何だろう? この構図……無性に腹が立つぞ。
加地が向ける好意は見ている方が恥ずかしくなるぐらいにストレートで、それを半ば天然にかわし続ける日野は、ある意味、すごいと思う。
だが同時に、これが俺の知らない彼女の日常なのだと思うと、複雑な気持ちになる。
俺とさえ親しくならなければ、こうやって同年代の男子生徒と青春を満喫していたのかもしれない。秘密の恋なんて鎖に縛られることもなく、堂々と感情を表に出すことができるのだ。
彼女が望むものを、何ひとつ与えてやれない俺は、昨晩の独白を思い出し、しょっぱい気分になった。
「それにしてもおとなしい猫だね。モデルにされていることが分かっているのかな?」
スケッチブックから顔を上げて、加地が呟いた。
「どうかな。でも、ヒロさんはとても賢い猫だよ」
「きっと飼い主に似たんだね。日野さんの猫なら賢くて当然だよ」
「もうっ、加地君ってば……」
おのれ加地葵。
俺の前でいちゃつきやがって……。
「みゃぉぅ」
――限界だ。
俺は四肢を突っ張って立ち上がると、ぶるぶると首を振った。
見なければ、知らなければ、余計な嫉妬心や罪悪感に悩まされることもない。これ以上の茶番はもうゴメンだ。
「あっ……ヒロさん?」
日野が寂しそうな目で俺を見る。
俺はそのまま二人の前を素通りして、その先にある茂みに潜り込む……つもりだった。
突風が吹いたのは、まさにその時だった。
「きゃっ――」
日野が小さな声をあげる。
木々が激しくざわめき、地面に置いていた絵画の道具が転倒した。
「日野さん、大丈夫!?」
散らばった道具を加地が慌てて拾い集める。
「そっちより、イーゼルが……危ないっ!」
気がつけば、俺の頭上に大きな影が迫っていた。
「……にゃっ?」
それはひどくスローモーションのように映り――。
「――!?」
鈍い衝撃と、カンバスに塗りたくられたビリジアンが、俺の視界いっぱいに広がった。
「ヒロさんっ――!」
つんざくような日野の悲鳴が聞こえ、油絵の具の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、俺はまたしても意識を失った。
吾輩は猫である。名前は「ヒロ」
なあ、俺がいったい何をしたって言うんだよ……!?