吾輩は猫である
8
丁寧に磨き上げられた黒塗りのボディに、俺の姿が映り込む。
それはグレーの毛並みと琥珀の瞳を持った、何処から見ても、正真正銘ただの雑種猫だった。
(ったく……どうして俺が、こんな目に遭わなきゃいけないんだよ……)
納得のいかないことが多すぎる。
俺は小さな溜め息をついてから、左前肢の爪を出して、思い切り頭上に振りかざした。
「――何をしているんですか、金澤さん!」
瞬間、鋭い声が丸まった背中に突き刺さり、思わず毛が逆立った。
「うみゃっ!」
(吉羅っ!)
振り返るより早く、首の後ろを強く引っ張られた。
そのまま乱暴に摘み上げられ、くるりと身体を反転されれば、心底嫌そうな顔をした吉羅と目が合った。
「低レベルな悪戯は止めてください」
――今、コイツ、スーツに毛が付いて面倒だとか、涼しい顔の裏で絶対考えてるんだぜ。
「みゃ、みゃおぉ……」
(いや、お前に伝言をな……)
「車に傷を付けずとも、他に手段はあるでしょう?」
むっとした暁色の双眸に、心なしか殺意が籠もっているのを感じる。
「にゃっ……」
(そりゃ……)
吉羅は俺を抱いたまま、運転席のドアを開ける。助手席のシートに身体を伸ばすと、革張りのそれに俺を優しく降ろした。
放り投げなかったのは、単に爪でシートに傷が付くのを恐れたからであろう。昔からそういう男だった。
「みゃ、うみゃっ!?」
(おい、何するんだよ!?)
「生憎と私は忙しいんです。ここで立ち話をしているような時間はありません。……話があるなら移動中に聞きましょう」
言いながら自分も運転席に滑り込んで、シートベルトを手早く締める。
どうやらこのまま、外出先まで俺を連れて行く気らしい。
こうなったら仕方がない……。
腹を括った俺は、猫にとっては座り心地のあまり宜しくない、革張りのシートに丸まった。
昼前ということもあって、幹線道路は比較的順調に流れていた。
「まったく……野良猫とドライブをする羽目になるとは思いませんでしたよ」
ハンドルを握った吉羅が、不服そうに呟く。
不本意なのはお互い様だ。
それもこれもすべての元凶は、あのイタズラ脳天気羽根妖精なのだから、俺に言われたって困る。
「……状況は概ね分かりました」
目の前で信号が変わり、吉羅が急ブレーキを踏んだ。
不自然な重力が掛かり、俺はシートから転げ落ちそうになる。
「んみゃっ! みゃみゃぁ!」
(危ねーだろっ! 気をつけろ!)
「……失礼。同乗者がいる場合は、それなりに気を配るのですが……不安でしたらシートベルトをして差し上げましょうか?」
返事の代わりに俺はぷいとそっぽを向く。
俺は物扱いですか、そうですか。
この野郎……今度同じようなコトしたら、シートに爪を突き刺してでも、踏ん張ってやるからな。
「では質問にお答えしましょう。まず行方不明になった金澤さんの服ですが……」
そこで一旦言葉を区切ると、吉羅は薄い笑いを浮かべた。
「理事長室で預かっています」
「みゃぁ?」
(はぁ?)
「朝方、森の広場を担当したクリーンスタッフが不審物として発見したようですね。事務局に届け出ようとしたところを押さえて、回収しました」
どうしてその場に吉羅が居合わせたのかは謎だが、とりあえず感謝はしておくことにする。
「なお……」
(ああ、助かったよ)
「いえ、お構いなく。私としても、不祥事の火種は消すに越したことはありませんから」
――おいおい、俺だって立派な被害者だぞ。
「それから日野君へのメールですが、そうですね……」
吉羅は少しだけ考え込む素振りを見せた。
青信号になり、車が静かに走り出す。
――連絡が遅くなってすまん、悪かったな。お前さんには心配掛けた分、土産は豪華にするから期待していいぞ。それとハナさんたちにメシをやっておいてくれると助かる――。
「……と、まあ、こんな文面でいかがですか?」
「みゃぁぁ、にゃお……」
(それで構わない、んだが……)
「心配しなくてもメールの履歴を覗いたりはしませんよ。そこまで野暮じゃありません」
「みゃお……」
(そうじゃなくて……)
――正直、見返りが怖い。
今回ばかしは一方的に借りを作っているだけに、この先、どんな無理難題が待っているかと思うと、ちと怖い。逆毛が立ちそうだった。
「にゃ……」
(吉羅……)
俺は顔色を窺うように運転席の吉羅を見上げる。
「いえ……別に大したことではありませんよ」
口角を吊り上げ、邪悪な笑みを浮かべる男の背中には、黒い翼が見えるような気がした。
「……来月、新しいスポンサー候補にちょっとしたプロモーションを企画していましてね、日野君に出演してもらえるよう金澤さんからも説得してください。私が命令するのは簡単ですが、こういったことは、本人の自由意思で引き受けてもらった方が都合が良い」
はぁ……やっぱりな。
そんなこったろうとは思ったよ。
ともかく、この状況で俺に選択権は存在しない。
「みゃお」
(分かったよ)
「では、交渉成立ですね。不本意だとは思いますが、もうしばらく付き合ってください」
吉羅は老舗ホテルの展望レストランで、取引先銀行の頭取と高級ランチ。
俺は同ホテルの薄暗い地下駐車場で、特上ササミジャーキー。
(車内を汚すと吉羅に睨まれるので、車の下に潜り込んで食べていた。情けねぇ)
例え吉羅に連れ出されなかったとしても待っているのは塩気のない猫缶だ。どっちに転んでも似たり寄ったりなわけだ。
――猫生ってのも存外ラクじゃないよ、ホントに。
* * *
「みゃぁぁぁぉぅ〜」
大きな欠伸をひとつして、俺は日溜まりの中心に丸まった。
吉羅に散々連れ回され(ヤツも終始迷惑そうな顔をしていたが)森の広場に戻る頃には、既に十四時半を回っていた。
昼休みはとうに終わり、午後の授業が始まっている。
日野は猫缶を持って、広場にいるはずの俺を探しに来たのだろうか……?
右前肢に結ばれた包帯を見て、少しだけ申し訳ない気分になる。
約束通り吉羅が俺を装って携帯メールを送ってくれれば、相殺ってところだな。
そんなことを考えながら、全身を包むような心地好い陽気にうとうととまどろんでいた。
「――――みゃっ!?」
下生えを踏みしめる音と、人の話し声が聞こえた。誰かがこちらに近付いているようだ。
一瞬、慌てかけたものの、よく考えれば今の時点で逃げる必要はなかった。
特にこの広場において、野良猫は容認されている。嫌がる生徒は最初から近寄らない。
俺は目を瞑ると感覚を耳に集中させた。
「ねえ、日野さん……この辺りなら誰もいなさそうで良いんじゃないかな?」
日野、という単語に俺の耳がぴくりと動く。今は猫だから本当に動くんだ。
それは聞き覚えのある男子生徒の声だった。
「待って、加地君……」
声の主の記憶を手繰るよりも先に、数時間ぶりに耳にする日野の声が正解を紡ぐ。
俺はぱちりと目を開いた。
茂みの向こうから姿を現したのは、スケッチブックを持った加地と日野だった。