吾輩は猫である
二手に分かれて捜索を始めること約十分――。
示し合わせたかのように、俺たちは再会した場所で顔を合わせた。
「ヒロさん、見つかりませんね……」
「ハナさんにも訊いてみたが、知らんそうだ……いるべき場所に戻ったんじゃないのか?」
「うーん、実は誰かの飼い猫だったのかな……? ヒロさん、すごく賢い猫だったんですよ。先生にも見せたかったなぁ……」
「続きは放課後にしようぜ。さすがに腹減った」
俺は芝生の上にどっかりと座り込んで、空を仰ぎ見る。青く澄んだスクリーンに薄い帯状の雲が、ゆっくりと流れていた。
「あれ? 先生……?」
日野が屈み込むと、俺の前髪をちょいと摘み上げた。
「おっ……何だ?」
「ここ、何か付いてますよ。緑色の……え、これって油絵の具!?」
――まずい。
完全に落とし切れていなかった油絵の具がそのまま、髪に残っちまったらしい。
「あ、それは……その……そう、準備室で、ちょっと片付けをしていてな」
「え? 準備室に油絵の具なんてあるんですか?」
「あーいや……棚の上から、こう、な……バサッと古いパレットが落ちてきたんだよ。本当だって! まったく誰が置いたんだろうな……実にけしからん」
我ながらひどい言い訳だな……こんな見え透いた嘘、誰が信じるってんだよ?
「先生……」
日野が声を震わせ、俺を凝視した。
――俺と入れ替わりに現れ、帰還と同時に姿を消した、アッシュグレーの猫。
前髪に付着した、見覚えのある油絵の具。
これで右手に残った傷痕を見せれば、彼女の疑念は確信へと変わることだろう。
「日野……?」
沈黙に堪えかねて、俺はごくりと唾を飲み込んだ。
「…………」
信じてない、って目をしている。
「ふふっ、そうですね……じゃあ、そういうことにしておきます」
日野はそう言って、強張らせていた表情を弛めるとくすりと微笑む。
「あ、ああ……俺には何のことだかよく分からんが、そうしてくれ」
「変な先生……」
俺の渋面に、屈託のない日野の笑い声が重なった。
――これ以上、ボロを出す前に、この場を去った方が良さそうだ。
「……日野、そろそろ昼飯喰いに行かないと、昼休みが終わっちまうぞ……お前さんが奏でるのはヴァイオリンであって、腹の虫じゃないだろ?」
「うっ……」
俺の言葉に日野は唇を噛みしめ、ほんのりと頬を染めた。
「時間もないことだし、今日はカフェテリアで、おばちゃんの特製ラーメンでもいただきますかね。今日だけは、奢ってやらんでもないぞー」
「えっ、本当ですか?」
「心配かけちまったお詫びってことで、特別にな」
きょとんとする日野の頭にぽんと手を置いて、軽くかき乱すと、俺は芝生から立ち上がった。
「んーっ、今日も良い天気だ」
幾分近くなった青空を仰ぎ見て、大袈裟に身体を伸ばす。
「ねぇ、先生……魔法ってあると思いますか?」
俺を見上げた日野が、真顔で問い掛けた。
「おいおい……ここはおかしな妖精が住み着いている学院だぞ。お前さん、何、言ってるんだよ……ほれ、とっとと行くぞ」
俺は誤魔化すように頭をかくと、茂みの奥を見つめて首を傾げる日野を置いて、先に歩き出した。
「ヒロさん……」
日野の呼びかけに振り返ってから「しまった!」と心の中で、舌打ちした。
「――って、お前さん、俺の名前を忘れたのか?」
「いいえ……忘れていませんよ、金澤先生」
「大人をからかうもんじゃない」
俺はようやく立ち上がってスカートの裾を直す日野を一瞥すると、小さな溜め息をついた。
「……が……したら」
「は……?」
「その……私が卒業したら『ヒロさん』って呼んでもいいですか?」
――なんて言いやがる。
「くだらないこと言ってると、奢ってやらないぞ」
「あ、ダメですっ」
日野の慌てる声に苦笑した俺は、静かに頭を振って再び歩き出す。
(……ま、前向きに考えておきますかね)
「――おい、羽根虫、そこら辺にいるのか? いるんだろ?」
人間に戻った俺に、ファータの姿は見えない。
「お前さんにゃホント、ひでぇ目に遭わされたよ。だけどな……その、ありがとさんな」
俺の知らない彼女の顔を見せてくれた。
アイツのあんな顔を見せられて、贔屓するなってのが無理な話だ。
俺、愛されてるねぇ……。
そんな俺の呟きに応えるように、頬にちくりと痛みが走った気がする。
今は、それだけで充分だった。
「あーっ、先生、待ってくださいっ……」
俺は小走りに駆け寄って来る彼女の気配に思わず口元を弛め、足を止める。
――優しい春の風が、森の広場を颯爽と吹き抜けていった。
――了