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吾輩は猫である

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「金澤先生!? 確か出張に行かれてたんじゃ……?」

 恰幅のいい白衣の男性が、ベッドに潜る俺の顔を見て驚嘆の声をあげた。
 校医の杉崎だ。
 普段から白衣を着て、中庭や森の広場をうろついている俺は、校医と間違われることも珍しくない。
 そのせいもあって、彼とは多少の面識があった。歳は俺と大して変わらなかった気もするが、その体格のせいか、俺よりずっと年上に見える。

「ええ……ついさっき、帰ってきたばかりですよ」
 ベッドを堂々と占領する俺に、保険医は訝しむような目を向けた。ま、当然の反応だわな。
「……帰りに喰った弁当が合わなかったんですかね。ちょっと腹の調子が悪くて、勝手に横にならせてもらってます。杉崎先生、すみませんが、吉羅……吉羅理事長を呼んでもらえませんか。私の常備薬を預けてあるんです」
「吉羅理事長を? はぁ……分かりました」
 我ながら滅茶苦茶な言い訳だと思ったが、吉羅の名前に恐れをなしたのか、杉崎は素直に頷くと、内線電話の受話器を手に取った。


 ――それから十分後……。
 大きな紙袋を片手に提げて、しかめっ面の吉羅が、保健室を訪れた。

「久し振りですね、金澤さん。一週間の『出張』ご苦労様でした」
「……お前が話の通じるヤツで、助かったよ」
 これはある種の賭けであったが、吉羅は俺の意図を汲んで、正しい行動を取ってくれた。
「まさか保健室から呼び出しがかかるとは、思いませんでしたがね」
「ちょいと事情があってな。お前……理事長になってから保健室(ここ)に入るのは初めてか?」
「ああ、言われてみればそうですね。私には無縁の場所ですから」
 俺たちがまだ、音楽科の制服を着ていた時代――学院創設者の末裔、優等生の吉羅暁彦君が、この部屋の世話になることは、皆無だった。
 つまらない小競り合いを起こして負傷したり、痛くない頭痛や腹痛で面倒な授業を「自主休講」したりしていた俺とは大違いである。
 保健室とはいつの時代でも、虚弱体質と不良を分け隔てなく受け入れてくれる場所なのだ。
「なあ……今やお前はこの学院を取り仕切る理事長様なんだ。ひとつ視察ってことで、軽く室内をチェックしてみたらどうだ?」
 にやりと笑って軽口を叩くと、脇から露骨な咳払いが聞こえた。杉崎である。
「あ……私はちょっと大切な用事を思い出したので、外させていただきますね」
 俺を気遣ってか、或いは理事長に同席する気まずさからか、引き留める隙を寸分も与えず、学校医はそそくさと部屋を出て行った。
 ん……ありゃ完全に後者だな。
 事情を知らない杉崎である。自主的に離席してもらえるに越したことはないので、俺も吉羅も黙って大きな背中を見送った。


「ふぅ……ようやく元に戻った……って気分だな」
 一週間ぶりに服を着て、白衣に袖を通し、愛用のサンダルを素足に突っ掛ける。しがない音楽教師の金澤紘人、ここに復活だ。
 ご丁寧なことに吉羅は、預けておいた携帯電話の充電までしてくれていた。留守録とメールのチェックは後回しにするとしても……こりゃ、本気で見返りが怖いな。
「大事がなくて、何よりです」
 まあ、何もなかったわけじゃないが、それは吉羅に打ち明けるべきことではない。
 特に日野家で起こったもろもろの事件は、人間の姿であれば問責裁判レベルのものばかりだ。
「お前には、ホント、感謝してるよ」
「あのイタズラ妖精は、後でみっちりと懲らしめておきましょう」
「そりゃ構わんが、報復されない程度に抑えてくれよ……また猫に戻るのはゴメンだ」
 俺が大袈裟に両手を挙げて見せると、吉羅は微かに表情を和らげた。
「ん……?」
「どうかしましたか?」
「……煙草とライターが見当たらんな……と思って」
 吉羅は白衣のポケットを探る俺の仕草をじっと見据えると、眉間に寄せた皺を一層深める。
「何かおっしゃいましたか」
 そう言って乾いた咳払いをひとつ。
「……いや、ただの独り言だ。気にするな」
 日野からもらった携帯吸い殻入れだけは、何故か残されていた。
「金澤さん、空いた時間で結構です。後で理事長室に来てください。アリバイ用の土産菓子を用意してあります」
「おっ、何から何まで、悪いな」
「ギブアンドテイクと言ったはずです。気にする必要はありませんよ」
 はぁ……ますます怖い。果たしてどんな無理難題を押し付けられるのやら。
 含みのある笑みを浮かべる吉羅を一瞥し、俺は猫になったときからずっと気になっていたことを訊いてみた。
「でさ……俺、結局何処に出張に行ったわけ?」


        *  *  *

 昼休みのチャイムが鳴ると同時に、俺は森の広場に向かった。
 久し振りに脂っこくて濃い味付けの食事が食べたいのは山々だったが、今はそれよりも優先するべきことがある。
 さもないと、昼飯を食いっぱぐれる被害者が、もうひとり増えてしまう。

「――ヒロさーん、何処にいるの……?」
 目的の人物は、広場の中心部に立ち入るなり、すぐに見つかった。
 短いスカートの裾を気にすることもなく、下生えに両手を突いて、植え込みに頭を突っ込み、決して見つかることのない存在に対して、呼びかけ続けている。
「ヒロさ……」
「よっ、久し振りだな」
 白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、俺は口角を軽く上げた。
「先生……」
 日野は口をぽかんと開けたまま、俺を真っ直ぐに見つめると、やがて、大きな瞳を潤ませる。
「その……急とはいえ、黙って出掛けちまって、すまんかったな……」
 沈黙が気まずくて、先に目を逸らした。
「あ……あっ……」
 驚きの表情がさっと引いたかと思うと、今度はたちまち赤くなる。
「い、一週間ぶり……ですね」
「……そうなるな」
 実際には、今朝も一緒に登校したわけだが……。
 言いたいこと、訊きたいことは色々とあるだろう。しかし、日野はそれらをすべて呑み込んで、ただひとつの質問を俺にぶつけた。
「先生、ヒロさんを見掛けませんでしたか?」
「は?」
 ここは惚けないといけない部分である。
「あ、そっか。先生は知らないんでした……猫です。多分、野良猫」
「ん? 聞いたことのない名前だな」
「そうですね。見ない子だったので、私が名前を付けましたから……アッシュグレーの毛をしたオス猫で、前肢に包帯を巻いています。見れば先生にもすぐに分かると思います」
 その包帯は、俺の白衣のポケットに入っている。
 何となく捨てられなくて、そのまま突っ込んできちまった。用途なんてないのにな。
「……どうしたんだろう? いつもは昼休みになると、ちゃんと戻ってきてくれるのに……」
 そう言って、傍に置いてあった手提げ鞄から缶詰を取り出した。
 今日の献立は「マグロ」らしい。ああ、ようやくアレとおさらばできる日が来たんだな……なんて、感慨に耽っている場合じゃないか。
「分かった、俺も探すのを手伝おう」
「はい、お願いします」

「おーい、ヒロさーん、ヒロさんやーい」
 声を張り上げ、形だけの捜索に加わる。
 とはいえ、見つかることは絶対にないので、適当にそれっぽく探すだけだ。
 ある程度探して収穫がないことを知れば、日野の気もとりあえずは収まることだろう。

作品名:吾輩は猫である 作家名:紫焔