お節介な贈り物
2
「よーし、忘れ物はないな?」
吐き出した息は見る間に白くなって、深い闇に溶け込んでいく。
時刻は午前五時を少し回ろうかというところだ。遅い冬の夜明けまでは、まだ幾らかの時間を要した。
吉羅が手配した飛行機は、羽田発函館行きの始発便だった。電車で空港まで向かうとなると、ほぼ始発になる上、乗換の連絡が悪すぎる。相談した結果、金澤が香穂子の自宅まで車で迎えに行くことになった。
「先生……傘は要りませんか?」
一泊分の荷物と衣装を詰め込んだボストンバックとヴァイオリンケースを、車の後部座席に置くと、香穂子は金澤を見つめて真顔で訊いた。
正式な学校行事ではないので、今日の香穂子は私服姿である。クリームのセーターにチェックのミニスカートを合わせていた。黒のタイツを履いているとはいえ、そんな格好で足腰は冷えないのかと、余計な心配をしたくなるのは、やはり歳のせいだろか。
「お前さん、真冬の北海道で傘差して歩くつもりか?」
「……?」
「いや……いい。行けば分かることだ」
金澤は後部座席のドアを閉めると、ベージュのコートを抱えて首を傾げている香穂子に対し、車に乗るよう促した。
「では、お嬢様をお預かりします」
そう言って、玄関まで娘を見送りに出ていた香穂子の母親に、恭しく頭を下げる。香穂子は母親似なのだろう。顔立ちがそっくりだった。
「金澤先生、何かと至らぬ娘ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
「お母さん、大袈裟だよ。大丈夫だってば!」
助手席のドアに手を掛けたまま、香穂子は不満そうに頬をふくらませる。
「明日の夜、私が責任を持ってご自宅まで送り届けますので、ご安心ください」
自身が発する白々しい言葉に、金澤は下げた顔の裏で自嘲の笑みを浮かべた。
今の自分は、星奏学院の音楽教師である。まさか娘の恋人候補だとは考えもしないだろうし、それをこの場で打ち明けるわけにもいかなかった。
香穂子が学院を卒業した後、改めて交際の挨拶に行ったとしたら、娘よりも歳が近いであろう自分に対して、果たして今と同じ言葉を掛けることができるのだろうか……?
――どちらにせよそれは今、考えるべき問題ではない。
金澤は運転席に乗り込み、シートベルトを締めると、胸ポケットから禁煙パイプを取り出す。母親が家の中に戻るのを見届けてから、それをくわえると、静かにアクセルを踏んだ。
* * *
――彼女に眠って欲しいと願ったのは、決して寝顔が見たいといった邪念の類ではなく、車内での会話を保たせる自信がなかったからだ……。
「お前さん、眠くないか?」
通勤ラッシュ前の幹線道路は空いていた。
香穂子の家を出発してから今のところ、一度も信号に引っ掛かっていない。対向車線を走っているのは、トラックと、営業所に戻るタクシーばかりだった。
「平気です。私、函館のガイドブックを買って、色々と勉強したんですよ。あ、ちゃんと曲の練習もしていますから、大丈夫です」
妙に弾んだ香穂子の声が、ハンドルを握る金澤の心に影を落とす。
「無理はするな。空港に着いたらちゃんと起こしてやるから、寝てていいぞ。今日はハードスケジュールだからな。今のうちにしっかり休んでおけ」
金澤の素っ気ない態度に、香穂子はむっとした顔をして、その横顔を凝視した。
「……先生は嬉しくないんですか?」
「そうだな。函館ラーメンは楽しみにしている」
「ラーメンだけですか?」
「イクラ丼もいいな。市場で喰うと美味いぞ」
「そうじゃなくて……」
彼女が何を言わんとしているかは、分かっている。
二人きりの旅行。金澤とて、嬉しくないわけがない。
だが、一度それを口にすれば、今まで必死に守ってきた互いの微妙な距離が、崩壊してしまうような気がして、彼を思い留まらせた。後先見ずに踏み込めるほど、自分はもう若くない。
「……なあ、日野。観光が楽しみなのは分かるけど、まずは、俺たちが呼ばれた目的を果たすことだけに専念しようぜ」
――ほら、こうして誤魔化して、また問題を先送りにする。
真っ直ぐに気持ちを表す香穂子に対して、何処まで自分は臆病で卑怯なのだろう。
彼女のひたむきな純粋さが眩しくて、痛かった。
こういうとき、無性に煙草が吸いたくなる。
すっかり馴染んだ紙箱は、後部座席に丸めたコートのポケットに忍ばせてある。が、今はまだ、火を点けることは避けたかった。
「先生……」
あからさまな落胆の声と視線が、助手席から向けられる。
「そうですよね。私たち、そのために行くんですものね」
「日野……」
聞き分けの良いふりをされるのが、一番辛かった。
我が儘を言われる方が、窘めてやれるだけまだマシだった。
彼女が望む言葉のひとつさえ与えてやれない自分の不甲斐なさを、堪らず呪いたくなる。
「……その代わり……っちゃなんだが、ちゃんと頑張る良い子には、俺からのご褒美があるぞ」
どうか言葉の裏を悟って欲しい。金澤は祈る気持ちで呟いた。
「え、本当ですか?」
「ああ、約束する。だから今は休んどけ」
約一ヶ月を掛けて準備したクリスマスのアンサンブルコンサートが、昨日終わったばかりなのだ。疲労は着実に蓄積されていたのだろう。
金澤の運転する車が高速に上がる頃には、可愛らしい寝息が助手席から聞こえてきた。
* * *
「飛行機って、なかなか離陸しないんですね」
小さな窓から滑走路を見下ろして、香穂子は呟いた。
シートベルト着用サインが出てから、もうかなりの時間が経つ。初めて乗るのならばきっと外を見たかろうと、金澤は窓際の席を香穂子に譲った。
「まあ、羽田は時刻通りに出る方が珍しいからな。一度飛べば着くのはあっという間だぞ」
チェックインも、手荷物検査も問題なく通った。それが普通なのであるが、香穂子はやたら嬉しそうな顔をしていたし、駅弁ならぬ空弁の存在にも驚いていた。
音楽の道を本格的に進むのであれば、これからは国内は勿論、海外にも頻繁に行くことになるのだろう。そんな彼女を人税の先輩として導いてやれることに、金澤は少しだけ誇らしい気持ちを抱いた。
「お前さん、北海道は初めてか?」
「いいえ。小さい頃、夏に家族で行ったことがありますけど、冬は初めてです」
カーフェリーを利用して、自家用車で向かったので、ものすごく時間が掛かりました。と付け足す。
「だから、どれだけ厚着すればいいか分からなくて……」
「はは、きっとこっちより温かいから、その心配は要らないんじゃないか。むしろ半袖が必要になるかもな」
「半袖?」
「そうだ。雪国の冬は暑いぞー」
金澤の言葉に香穂子が小首を傾げていると、アナウンスが入り、滑走路への移動が始まった。
車体が大きく上下に揺れる。正面のモニターには、滑走路の状態が映し出されていた。
「せんせ……」
青ざめた顔で、じっと金澤を見つめる。
そんな彼女を見ていると、オペラ歌手時代、飛行機が嫌いで、いつも離陸前に飲んだくれて寝てしまう同僚がいたこと思い出した。
「ほれ」
金澤は苦笑すると、香穂子の膝の上に手を伸ばし、そこで震える小さな手を握ってやった。