お節介な贈り物
3
――そこに貴方がいるから……
その温かい目で、いつも優しく見守ってくれているから、
私は演奏に集中できる。何も怖くはない。
だから、私は貴方のために、貴方のためだけに奏でる。
胸いっぱいに溢れる想いを、音色に託して……。
「――本日最後の演奏者になります。本日のスペシャルゲスト、星奏学院の日野香穂子さんです」
会場内にアナウンスが響いた。
香穂子はライトアップされたステージの中央に進み出ると、柔らかい笑顔を浮かべて、超満員の客席に一礼した。
いつか金澤が好きだと言ってくれた、純白のドレスに身を包み、アップにした髪には、金のリボンを巻いている。
心は凪の海のように穏やかで、落ち着いていた。
拍手が鳴り止む頃合いを見計らって、ヴァイオリンを構えると、軽く後ろを振り返る。
グランドピアノの前には、ダークグレーのフロックコートにワインレッドのアスコットタイを締めた、長身の男が鎮座していた。
優しい琥珀色の瞳が、彼女の瞳を縫い止めてこくりと頷けば、緩くまとめた淡い長髪が背中で優雅に揺れる。
伴奏者の名前は、金澤紘人――。
軽やかなピアノのフレーズに合わせて、ヴァイオリンの音色が響き渡る。
染み込むような、優しい音色が会場の空気を震わせ、夢のようなひとときが始まった。
* * *
――予測できないから、人はそれをトラブルと呼ぶ。
函館空港は粉雪が舞っていた。
ターミナルビルを出ると、真冬の北海道の寒さを体感して騒ぐ間もなく、タクシーに駆け込んで、コンサート会場となるホールに直行する。
そこで二人を出迎えたのは、青い顔をした男性スタッフだった。
「インフルエンザ……?」
「はい、ついさっき、病院から連絡を受けまして……今、急いで代わりの奏者を捜しているところです」
男性スタッフの話では、香穂子の伴奏を務める予定のピアノ奏者が、インフルエンザに感染して、急遽出演を見合わせることになったと言う。
開演前の舞台裏が慌ただしいのは常であるが、今はそれに輪を掛けてバタバタしていた。
「リハーサルまで、もうあまり時間がありませんよね」
香穂子にとっては、元よりぶっつけ本番に近いコンサートだ。吉羅から事前に受けた通達によれば、リハーサルが始まるまでの間に、この日、初対面となる伴奏者と、練習を行うはずだった。
「今からでは、伴奏者を手配するのは厳しいと思います。私は無伴奏でも構いませんので、演奏曲を変更しても構いませんか?」
「すみません。こちらもギリギリまで粘ってみますので、お願いします」
若い男性スタッフは、深々と頭を下げる。
「そんな、謝らないでください……」
香穂子はいたたまれなくなって、面を上げるよう懇願した。別に彼の責任ではない。世の中には、自分の力でどうにもならないこともある。
「……もうひとつ、手があるんじゃないか」
香穂子の傍らで、黙って成り行きを見守っていた金澤が、そこでようやく口を開いた。
「先生……?」
きょとんとした香穂子の目が向けられると、にやりと口元を緩めてみせる。
「……俺さ、これでも一応、音楽教師なわけよ。土浦……とまではいかないが、お前さんの引き立て役ぐらいには、なれるんじゃないか?」
金澤が香穂子の伴奏を担当する――。
「先生、ピアノ弾けるんですか!?」
「おいおい、弾けないと、音楽教師にはなれないぜ」
香穂子が訝しむのも無理はなかった。
金澤が担当する普通科の音楽の授業において、伴奏はピアノの得意な生徒に任せっきりで、彼自身がピアノ弾く姿を誰も見たことがない。芸術に音楽を選択していない香穂子でも知っている、有名な話だった。
「いきなり知らないヤツと合わせるよりは、やり易いんじゃないか? 毎日聴かせてもらってる分、お前さんの癖は良く分かってるつもりだぜ」
照れ隠しに乱れた頭をかきながら、軽口を叩く。
「先生と合奏……」
「んな大層なもんじゃないって。どうする? やっぱり止めとくか?」
「いえ、やります! お願いします」
自分が発した声の大きさに、香穂子ははっとして、首まで赤くなった。
「そうと決まれば、さっそく練習だな。君、適当に衣装を見繕ってもらえるか?」
「はい、すぐに手配致します」
スタッフは金澤の服のサイズを控えると、慌てて楽屋を飛び出していった。
* * *
清らかなヴァイオリン、艶のあるピアノ。
絡み合うふたつの旋律は、官能的ですらある。
この日、初めて合わせたとは思えないほど、二人の呼吸はぴったりと揃っていた。
それは金澤の技巧に依るところが、大部分を占める。
日々、香穂子の演奏を聴き、その成長を陰から見守ってきた金澤は、彼女のペースを完璧に読んで、必要以上に目立ちすぎないよう気を配りながら、ヴァイオリンを引き立たせる演奏に徹した。
まさに理想的な伴奏である。
そして、鍵盤が弾き出す音に彩りを与えているのは、彼女への揺るぎない想い。
自分を優しく包み込むようなピアノの音色を聴きながら、香穂子は恍惚に浸ってヴァイオリンを奏でる。
今、二人は、互いの演奏を通じて、想いを伝え合っていた。
この幸せな時間が、いつまでも続けば良いと、願わずにはいられなかった。
最後のフレーズが高らかに響き、やがて静寂が場を支配する。
ヴァイオリンを肩から下ろして、香穂子が一礼すると、割れんばかりの拍手と歓声が、ホール中に溢れかえった。
* * *
カーテンコールが終わり、楽屋に戻った香穂子は、ほぼ無名であるはずの自分宛に、幾つかの花束が届けられていたことに驚き、いたく感激した。
「あいつめ……」
金澤は花束に添えられたカードのひとつに、吉羅暁彦の名前を確認して苦笑すると、アスコットタイを片手で緩める。
「日野……良い演奏だった」
「有り難うございます。先生もお疲れ様でした。ピアノ……とても素敵でした」
不慮の事故は、香穂子に貴重な経験をもたらしてくれた。
「あ、俺がここで伴奏したってのは内緒な。学院に戻ってからまた弾けってせがまれたら、面倒で堪らん」
その緩んだ態度を見ていると、先程までステージで華麗な演奏を見せていた男と同一人物とは、とても思えない。
普段、だらしない格好ばかり見ているせいで、あまり意識しないが、こうしてきちんと身なりを整えれば、かなりの美形である。整った横顔を見つめる香穂子の心臓が高鳴った。
「何だ?」
香穂子の視線に気付いた金澤が、怪訝な顔をする。
「そ……その服もよく似合ってます」
「そうか? 俺はおまけみたいなもんだし、もっと地味な方が良かったんだが、借り物だから文句も言えなかったんだよな……そんな目で見て、さては見惚れたか?」
からかうような口調に、香穂子は頬を染めてこくりと頷く。
面食らったのは、金澤の方だった。
「おいおい、冗談を真に受けるなって……。俺、ちょっと主催に挨拶してくるわ」
わざとらしく咳払いをすると、逃げるように楽屋を出て行こうとする。