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My Lovely Violinist

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――彼には勝てない、と思う。

 まず、生きている時間が圧倒的に違う。
 ひと回り以上の年の差は、幾ら背伸びしたところで、簡単に埋められるものではない。
 生まれた家柄もまるで違う。
 こちとらコンビニで、定価の菓子を買うことに悩むような平凡な庶民。一方の彼は、菓子といえば、家お抱えのパティシエが作るものだと思っている、生粋のブルジョア。
 内に秘めたる才能だって、桁違いだ。
 過去の悲痛な事件が原因で、彼は音楽を捨ててしまったけれど、その気になれば、にわか仕込みな彼女のヴァイオリンなど、比にもならない腕前を見せることだろう。おまけに、音楽の祝福を受けているときたもんだ。『学院創立者の末裔』は飾りじゃない。
 今、手掛けている仕事だってそうだ。冷静な分析力と、先見の明、正確かつ大胆な判断が必要で、その立場に就いたからと言って、誰もが出来ることではない。
 体格や身体能力は男女差があるからともかく、彼女が彼に勝るものは、何ひとつなかった。

 だからって、一方的に負けたくはない。
 彼の思い通りに、振り回されたくはない。
 その感情が何に所以するものなのか、彼女はまだ、気付いていなかった……。

      ◇   ◇   ◇

「……これって、何度目の『偶然』ですかね?」
 真正面に座った「彼」を上目遣いに見て、香穂子は怖々と口を開いた。スパークリングウォーターのグラスを優雅に傾け、男は微かに口端をつり上げる。

 そろそろティータイムに移行しようかという時間帯。
 落ち着いた内装の店内には、心地好いピアノの生演奏が流れている。品の良い客たちが、思い思いのスタイルで、ゆったりとした日曜の午後を満喫していた。
「さて……気にしたこともないな。生憎、無意味なことをストックできるほど、私の記憶に余裕はないのでね」
 吉羅暁彦――星奏学院の若き理事長。
 きっちり着こなしたスーツは、愛車と同じ国が生み出した、有名デザイナーの手によるものだ。襟元から足の先まで高級ブランドで固めながら、嫌みを感じさせないのは、理事長という肩書きのせいか、さり気ない仕草のひとつひとつに漂う気品のせいなのか……。

 香穂子が音楽科に転科して、間もなく二ヶ月が経つ。
 コンミス試験を開催していた頃から何度となく重ねていた、この「偶然」による吉羅との食事会は、新年度が始まった今でも、相変わらず継続していた。

五月最後の日曜日。
 香穂子は愛用のヴァイオリンケースをぶら下げて、駅前に向かっていた。
 透き通った青空と同じ色をしたワンピースの裾が、歩く度ふわりと揺れる。初夏の空気を吸いながらヴァイオリンを演奏するのは、さぞ爽快なことだろう。
 雑貨屋や喫茶店が建ち並ぶ石畳の通りを抜け、目指す先はお気に入りの噴水広場だ。
「あっ……」
 半ば無意識で早足となった彼女の前に、黒塗りのイタリア車が颯爽と姿を現した。この車には、ありすぎるほどに見覚えがある。
「やあ、日野君。奇遇だね」
 パワーウインドウを下ろした運転席の男は、開口一番にそう言った。
「理事長……」
 狙い澄ましたようなタイミングは、裏通りで自分を待ち構えていたのではないか? と勘ぐりたくなる。
「君さえ良ければ、付き合わないかね?」
 誘っているとも取れる言葉であるが、その実命令だ。香穂子は頭の中の予定表を消しながら、こくりと頷いた。
 そのお陰で、平均的な女子高生の小遣いでは考えられない、豪華なランチにありつけるのだが、毎回のことだと、さすがに色々と不安になってくる。
 吉羅は自分以外の生徒と、こうして食事やドライブに出掛けることが、ないのだから……。

「ところで日野君。あれは悪さをしていないかね」
「え……?」
 皿に残ったトマトソースをスプーンで掬う、香穂子の手が止まった。一呼吸置いて、それが学院に住み着いた音楽の妖精を指しているのだと気付く。
「ええ、ヴァイオリンを弾くと、喜んで集まってきますけど、それ以外は特に……」
「そうか。なら構わない」
「理事長は何か、お困りなんですか?」
 香穂子が顔を上げると、吉羅は手にしていたグラスを置いて、代わりにナプキンで口元を拭った。
「一年前、君も参加した音楽コンクールの思い出話をやたらとされてね……もう、うんざりだ。鬱陶しいから追い払えば、『どうせ創立者に似るのならば、顔ではなく、素直な性格を受け継いで欲しかったのだー』だ、そうだ。私だって、好んでこのような家に生まれたわけじゃない」
 心底嫌そうな顔をして語る吉羅の様子に、香穂子は思わず苦笑する。心の中で少しだけ、妖精に同情した。
「……君の演奏に、人を惹き付ける不思議な魅力があるのは、連中に暑苦しく語られなくとも、自分の耳で聞けば、すぐに分かることだ」
「やだ、そんな風に言われると……」
 急に気恥ずかしくなって、頬が熱くなる。
「謙遜する必要はない。私だって話題性だけで、君を学院の広告塔に仕立て上げるほど、愚かではないよ」
「そう……ですよね」
 辛辣な言葉にどう答えようか。悩む香穂子に助け船を出したのは、洋梨のコンポートとバニラアイスクリームの盛り合わせを手にした、ウエイターだった。

 食事の後は、吉羅のドライブに付き合うのが、暗黙の了解となっていた。
 この日も海岸線を軽く走り、潮風の心地好い海浜公園でヴァイオリンをひとしきり演奏すれば、西の空は美しい茜色に染まっていた。

「今日も一日、付き合わせてしまったね」
 悪びれた様子もなく言うと、吉羅は愛車を日野家の玄関前に横付ける。
 母親が夕食の支度をしているのであろう。台所から漏れる灯りが、薄暗い車内をぼんやりと照らし出していた。
「いえ……私の方こそ、ご馳走様でした」
「君は日頃、学院に貢献しているのだから、これぐらいの待遇はあって然るべきだ。気にしなくて良い」
「……どうして、私なんですか」
 シートベルトを外そうと、伸ばした手がふいに止まる。訝しむような視線が、横顔に突き刺さるのを感じ、香穂子は俯いた。
「あの……理事長にとって、私は特別ですか?」
 自分が恋愛対象として、見られていないことは、既に確認済みである。もし、あるのだとすれば、似たような境遇に置かれた同情、あるいは百歩譲って親愛の類であり、男女間のそれではないのだろう。
「……ずっと不思議に思っていたんです。他の生徒は誰も、食事やドライブ誘われたことがないって。私はファータが見えるから、特別なんですか?」
 吉羅はハンドルに両手を置いたまま、フロントガラスの向こうをじっと見据えた。
「前にも話さなかったかな。君を誘うことに、深い意味はないよ。無論、私に同伴する最低条件を満たしているからとも言えるがね」
「他の人は、その最低条件を満たしていないんですか。だから、食事にも誘わないんですか」
「日野君……」
 吐き出すように呟くと、助手席のドアに左手を突き身を乗り出す。半ば無意識に身体を引いた香穂子の顔を、正面から覗き込んだ。
「あまり自惚れないことだな。度を超えた思い上がりは、時に君の足元を崩しかねない。それとも……」
 右手が伸ばされ、香穂子の顎を引き寄せる。
 鼻が触れ合いそうな距離に吉羅の顔が迫っていた。
作品名:My Lovely Violinist 作家名:紫焔