My Lovely Violinist
「えっ……!? 理事ちょ――」
唇に生暖かい感触が広がり、すぐに離れる。
咄嗟に何が起こったか理解できず、香穂子は大きく目を見開いていた。
「……そういう解釈を望んでいるのかね、お嬢さん」
自分を見つめる暁色の瞳が、妖しく揺らめく。
「…………」
「さあ、もう行きたまえ」
いつシートベルトを外したのかさえ、記憶にない。
香穂子は、魂の抜けた人形のような挙動でドアを開け、革張りのシートを滑り降りる。久し振りの地面の感触を確かめる間もなく、ドアの閉まる乾いた音が、周囲に寒々しく響いた。
エンジンの音が遠ざかり、車影が視界から完全に消えても、香穂子は唇を押さえたまま、呆然と玄関の前に立ち尽くしていた。
「――ファーストキス、だよね……」
まぶたを閉じると、唇の温もりが鮮明に蘇る。
堰を切ったように、涙が溢れ出した。
「あ、そっか……」
今、心に満ちているのは、怒りや悲しさではない。胸が締め付けられるほどの「喜び」だった。
「私、理事長のことが好きだったんだ。どうして今まで気付かなかったんだろう……」
◇ ◇ ◇
「日野香穂子――」
放課後、森の広場のベンチにぼんやりと座っていた香穂子の眼前で、金色の光が舞い踊った。
「リリ……」
光の中心から、羽根を持った妖精が勢いよく飛び出す。
「どうしたのだ? お前、近頃、元気がないのだ。何か辛いことでもあったのか」
あの日から、香穂子は吉羅を避けるようになっていた。
恋は少女を臆病にさせる。
自分の気持ちに気付いた途端、どんな顔で彼の前に立てばいいのか分からなくなった。彼の顔を直視する自信すら持てない。
「落ち込んだときは、音楽を奏でるのが一番なのだ」
事情を知らない妖精は、脳天気な笑顔で飛び回る。
「ごめん、ちょっと今、そんな気分じゃなくて……」
理事長室から遠ざかると同時に、ヴァイオリンの自主練習も中断していた。ヴァイオリンを弾けば、自分の居場所を吉羅に知らせてしまうような気がしたからだ。
「むう……それは残念なのだ。だが、誰にでも調子の悪いときはある。早く復活して、吾輩にお前の素晴らしい音色を聞かせてくれ」
「うん、心配かけてごめんね」
「お前は吾輩の命の恩人だ。ファータはとても義理深い。困ったことがあれば、何でも相談するのだ。……おお、そういえば、吉羅暁彦も酷く機嫌が悪かったな」
「え……?」
腕を組んで呻る妖精を、思わず見上げる。
「あの男が不機嫌なのはいつものことだからな。お前がトクベツ気にする必要はないのだ」
不機嫌の原因に、自分の存在は影響しているのだろうか。それこそ、思い上がりであろうか。
香穂子は唇を噛みしめると、膝に置いた手を見つめた。
彼女を励ますように、周囲をふわふわと漂っていた、妖精の動きがぴたりと止まる。
「む、嫌なヤツが来たのだ。ひとまず、さらばなのだ!」
「あっ、リリ――」
空中を大きく翻り、妖精は姿を消した。
「なんだ、日野。宙に向かって独り言か?」
「金澤先生……」
「……そんな顔しなさんな。アレがいたんだろう」
白衣の音楽教師は、後頭部をかきながら呟いた。
「はい。もう、いなくなっちゃいましたけど……」
「あいつ……昔、羽根を摘んで虐めたこと、まだ根に持ってるのかね。もう、今の俺には、見えねーってのにな」
苦々しい表情で、香穂子の顔をちらりと見ると、小さな溜め息をつく。
「はい?」
「……お前さん、このところ、ヴァイオリンの練習をしてないみたいだな」
「え、ええ。ちょっと気分が乗らなくて……」
「あのなあ、音楽科の生徒が、そんな風でどうするんだ。お前さんぐらいの年頃は、上達も早いが、腕がなまるのも早いんだぞー」
「それは……分かっていますけど……」
今の香穂子には、返す言葉もない。
「ま、練習をサボってばかりいた俺が、偉そうなこと言えた立場じゃないけどな。若者らしい恋の悩みも結構だが、基本練習ぐらいはしておけや」
「え、なんで――」
はっとして香穂子が顔を上げると、金澤はわざとらしく白衣の袖をまくり上げ、腕時計を一瞥した。
「おっと、今日はこれから職員会議だ。こんな陽気だといい睡眠時間になりそうだな。じゃーなー、若人」
「ちょっと、先生……」
猫背の大男は、手をひらひらと振る。素足に突っ掛けたサンダルをぺたぺたと鳴らして、立ち去ってしまった。
「そう……だよね」
再びひとりになった香穂子は、傍らに置いていた、ヴァイオリンケースを見つめた。彼女とて、ヴァイオリンが嫌いになったわけではない。
弾くのは怖い。だが、弾けなくなるのはもっと怖い。
ゆっくりと深呼吸をする。
「――よし」声に出して呟くと、ベンチを立ち上がった。
森の広場の最深部は、静寂に満ちていた。
日溜まりで、身体を寄せ合い丸まっていた猫たちが、香穂子の気配に飛び起きる。
「ごめんね。ちょっとの間、借りても良いかな?」
◇ ◇ ◇
「……なんだ、この音は?」
風が運んだヴァイオリンの音色に、中庭を歩いていた吉羅は思わず足を止め、眉間に皺を寄せた。
途切れ途切れの乱れた音は、まるで習い始めたばかりの初心者だ。だが、その旋律には聞き覚えがある。
「――ジュ・トゥ・ヴ……」
彼女が自分のためによく弾いていた、激しい恋の歌――。
苦笑いを浮かべると、調子の外れた旋律に誘われるかのように、森の奥へと足を向けた。
◇ ◇ ◇
「実に酷い音だ。何処の一年の仕業かと様子を見に来れば、まさか君だったとは……一体、何の冗談だね?」
「理事長……」
背中に浴びせられた冷たい声に、香穂子は弓を構える腕を止め、ヴァイオリンを肩から下ろした。
「しばらく演奏していなかったから、勘が鈍って……」
「そのような理屈が私に通用すると、本気で思っているのかね。演奏者の心は、音にそのまま表れる。今、君の心は、さぞや乱れているのだろう」
吉羅の淡々とした言葉に、香穂子は目を伏せ、きっと結んだ唇を震わせる。
「だとしたら、理事長のせいです」
「ほう、私のせい?」
「だって……理事長があんなこと、するから……」
頬を真っ赤に染め、唇に指先を充てる香穂子を見て、ようやくそれが、日曜の夜、別れ際にした戯れを意味していることに気付いた様子だ。
「ああ、あのことか」
「どうして……」
「意味など別にないよ」
「酷いです! 私、初めてだったのに……」
他人事のような吉羅の態度に、つい、語気が荒くなる。
「ほう。それは失礼」
「謝らないでください……謝られたって、今更、なかったことには出来ないんですよ」
「日野君。私は君に謝罪するつもりは、微塵もないよ」
不敵に笑うと、前に一歩、大きく踏み出した。
「え、理事ちょ――1?」
不穏な空気に気圧された香穂子は、反射的に身体を引こうとするが、逞しい腕に腰を掠われ、仄かにコロンの香る胸元へと抱き寄せられる。
顎を掴まれ引き上げられると、唇を荒々しく塞がれた。
「ん……」
作品名:My Lovely Violinist 作家名:紫焔