恋愛終着駅
――二週間ぶりに対面した恋人の顔は、少しやつれているように思えた。
「平日なのに、呼び出しちまって悪かったな」
九月に入って最初の水曜日――夏の終わりを感じさせるような、激しい夕立の上がった夜……。
日持ちしない土産を買ってしまった。という理由で、香穂子は金澤のアパートに呼び出された。
「そんな……悪くなんてないです。久し振りに先生と会えて、すごく嬉しいです」
「そりゃまた、随分と大袈裟なこった」
香穂子の真剣な言葉に、金澤は破顔一笑する。
前日まで金澤は、祖父の七回忌のため遅い盆休みを兼ねて長めの休暇を取り、実家に帰省していたのだった。
「……先生は寂しくなかったんですか?」
空になった麦茶のグラスを置いて、香穂子は真向かいの畳でだらしなく胡座をかく金澤を見つめた。
「あーっ、そんな目をするなって! ――寂しかったに決まってるだろ」
そう口にしてから、気まずそうにぼりぼりと乱れた頭をかきむしる。
まだ香穂子が高等部の制服を着ていた頃は、喉の疾患を治療するために単身アメリカへと渡り、半年以上離れていたこともあった。
しかし、香穂子が金澤の教え子を卒業し、晴れて交際するようになってから、丸十日以上顔を合わせなかったのは、これが初めての経験となる。
「法事、大変だったんですか?」
「ん? 別に大したことはないさ。学院でも実家でも、雑用係なのは変わらんしな」
茶化したような物言いから、金澤の本心は酌み取れない。
実家に滞在している間は、三度の食事に困ることはないはずなのに、やたらとやつれた雰囲気を全身から漂わせているのが、香穂子の心に引っ掛かった。
「先生?」
「――っと、もうこんな時間か。あまり遅くまで引き留めちゃ、親御さんに申し訳が立たないな。駅まで送ろう」
金澤はテレビの上に置いた置き時計を一瞥して、慌てて立ち上がろうとする。香穂子は身体を乗り出すと、目の前で揺れる洗いざらしのシャツの裾を引っ張った。
「おっ……何だぁ?」
「あ、あのっ、今夜は菜美の家に泊まろうと……」
無論、それは家族に対する方便であって、本当に天羽の家に泊まるわけではない。
「んーその、な……」
金澤は頬を赤く染めて、もごもごと呟く香穂子を見下ろしながら、きまりの悪そうに後頭部を撫でつけた。
「先生……?」
「悪い、ちょっと疲れているみたいだ……埋め合わせは週末にするからさ、今夜のところはおとなしく帰ってくれないか?」
「ごめんなさい……そうですよね……」
明日は午後の講座しかない自分とは違い、金澤は朝から普通に仕事がある。
――自分の都合ばかりを押し付けてはいけない。
頭では理解しているものの、目に見えない何かを本能が感じ取り、もやもやとした不安が胸に広がってゆく。
「俺だって、お前さんを可愛がりたいよ」
金澤はそっと香穂子を抱き寄せて顎を持ち上げると、宥めるように優しいキスをした。
「急に秋っぽくなりましたね」
身長差があるために肩を並べて……とはいかないが、金澤とふたり、駅までの夜道をゆっくりと歩く。
道端の茂みに潜んでいるのだろう。鈴虫の澄んだ鳴き声が周囲に響いていた。
「もう九月だからな……大学はいつからだっけ?」
「二十日からです」
「そういえば、お前さんの誕生日も近かったよな」
「嬉しい、覚えていてくれたんですね」
声を弾ませて香穂子は立ち止まると、頭ひとつ分高い金澤の顔をまじまじと見つめた。
「そりゃ……まあ、なぁ……」
男のクセに記念日を覚えているのは、女々しいんじゃないかと金澤が苦笑する。
香穂子は大きく首を振って否定した。
「そんなことないです。こ……恋人の誕生日を忘れる方が、どうかしてると思います」
自分で言っておきながら「恋人」という響きが妙に気恥ずかしい。頬が熱を保ち、薄闇の中でも赤くなっているのが分かった。
「……あと一年です」
「ん? 何がだ?」
「あと一年とちょっとで二十歳です。なんだか、歳を取るのってあっと言う間ですよね」
「お前さん、まだ若いんだからさ、そんな年寄り臭いこと言うなよ」
「私が二十代になれば、少しは先生と釣り合えますか?」
あどけない輝きを宿した瞳を真っ直ぐに向けられ、金澤は思わず身じろいだ。
「いや……その分、俺だって歳を取るんだが……」
「あ、そっか……」
しゅんと項垂れた香穂子の頭にぽんと手のひらを乗せる。
「背伸びするのも結構だが、貴重な十代は二度と戻らないんだぞ。悔いのないよう有意義に過ごすべし」
「命短し、恋せよ乙女……ですね」
「こいつめ、言ったな」
香穂子の額を指先で軽く小突いて、金澤が笑い返す。
この時、金澤が僅かに覗かせた暗い表情に、香穂子が気付くことはなかった。
たとえ気付いたとしても、誕生日プレゼントを悩んでいる程度にしか受け取らなかったことだろう。
金澤の都合がつかず、約束の「週末」が訪れたのは、それからさらに十日後となった……。
「平日なのに、呼び出しちまって悪かったな」
九月に入って最初の水曜日――夏の終わりを感じさせるような、激しい夕立の上がった夜……。
日持ちしない土産を買ってしまった。という理由で、香穂子は金澤のアパートに呼び出された。
「そんな……悪くなんてないです。久し振りに先生と会えて、すごく嬉しいです」
「そりゃまた、随分と大袈裟なこった」
香穂子の真剣な言葉に、金澤は破顔一笑する。
前日まで金澤は、祖父の七回忌のため遅い盆休みを兼ねて長めの休暇を取り、実家に帰省していたのだった。
「……先生は寂しくなかったんですか?」
空になった麦茶のグラスを置いて、香穂子は真向かいの畳でだらしなく胡座をかく金澤を見つめた。
「あーっ、そんな目をするなって! ――寂しかったに決まってるだろ」
そう口にしてから、気まずそうにぼりぼりと乱れた頭をかきむしる。
まだ香穂子が高等部の制服を着ていた頃は、喉の疾患を治療するために単身アメリカへと渡り、半年以上離れていたこともあった。
しかし、香穂子が金澤の教え子を卒業し、晴れて交際するようになってから、丸十日以上顔を合わせなかったのは、これが初めての経験となる。
「法事、大変だったんですか?」
「ん? 別に大したことはないさ。学院でも実家でも、雑用係なのは変わらんしな」
茶化したような物言いから、金澤の本心は酌み取れない。
実家に滞在している間は、三度の食事に困ることはないはずなのに、やたらとやつれた雰囲気を全身から漂わせているのが、香穂子の心に引っ掛かった。
「先生?」
「――っと、もうこんな時間か。あまり遅くまで引き留めちゃ、親御さんに申し訳が立たないな。駅まで送ろう」
金澤はテレビの上に置いた置き時計を一瞥して、慌てて立ち上がろうとする。香穂子は身体を乗り出すと、目の前で揺れる洗いざらしのシャツの裾を引っ張った。
「おっ……何だぁ?」
「あ、あのっ、今夜は菜美の家に泊まろうと……」
無論、それは家族に対する方便であって、本当に天羽の家に泊まるわけではない。
「んーその、な……」
金澤は頬を赤く染めて、もごもごと呟く香穂子を見下ろしながら、きまりの悪そうに後頭部を撫でつけた。
「先生……?」
「悪い、ちょっと疲れているみたいだ……埋め合わせは週末にするからさ、今夜のところはおとなしく帰ってくれないか?」
「ごめんなさい……そうですよね……」
明日は午後の講座しかない自分とは違い、金澤は朝から普通に仕事がある。
――自分の都合ばかりを押し付けてはいけない。
頭では理解しているものの、目に見えない何かを本能が感じ取り、もやもやとした不安が胸に広がってゆく。
「俺だって、お前さんを可愛がりたいよ」
金澤はそっと香穂子を抱き寄せて顎を持ち上げると、宥めるように優しいキスをした。
「急に秋っぽくなりましたね」
身長差があるために肩を並べて……とはいかないが、金澤とふたり、駅までの夜道をゆっくりと歩く。
道端の茂みに潜んでいるのだろう。鈴虫の澄んだ鳴き声が周囲に響いていた。
「もう九月だからな……大学はいつからだっけ?」
「二十日からです」
「そういえば、お前さんの誕生日も近かったよな」
「嬉しい、覚えていてくれたんですね」
声を弾ませて香穂子は立ち止まると、頭ひとつ分高い金澤の顔をまじまじと見つめた。
「そりゃ……まあ、なぁ……」
男のクセに記念日を覚えているのは、女々しいんじゃないかと金澤が苦笑する。
香穂子は大きく首を振って否定した。
「そんなことないです。こ……恋人の誕生日を忘れる方が、どうかしてると思います」
自分で言っておきながら「恋人」という響きが妙に気恥ずかしい。頬が熱を保ち、薄闇の中でも赤くなっているのが分かった。
「……あと一年です」
「ん? 何がだ?」
「あと一年とちょっとで二十歳です。なんだか、歳を取るのってあっと言う間ですよね」
「お前さん、まだ若いんだからさ、そんな年寄り臭いこと言うなよ」
「私が二十代になれば、少しは先生と釣り合えますか?」
あどけない輝きを宿した瞳を真っ直ぐに向けられ、金澤は思わず身じろいだ。
「いや……その分、俺だって歳を取るんだが……」
「あ、そっか……」
しゅんと項垂れた香穂子の頭にぽんと手のひらを乗せる。
「背伸びするのも結構だが、貴重な十代は二度と戻らないんだぞ。悔いのないよう有意義に過ごすべし」
「命短し、恋せよ乙女……ですね」
「こいつめ、言ったな」
香穂子の額を指先で軽く小突いて、金澤が笑い返す。
この時、金澤が僅かに覗かせた暗い表情に、香穂子が気付くことはなかった。
たとえ気付いたとしても、誕生日プレゼントを悩んでいる程度にしか受け取らなかったことだろう。
金澤の都合がつかず、約束の「週末」が訪れたのは、それからさらに十日後となった……。