恋愛終着駅
* * *
遠目に見ても、綺麗な女性――だった。
視界に飛び込んだ光景を瞬時に理解できず、香穂子は路上で呆然と立ちすくんでいた。
――土曜日の昼下がり。
一週間遅れの約束を履行してもらうべく、香穂子は軽快な足取りで、金澤のアパートへと向かっていた。
アパートまでは、駅からゆっくりと歩いて十五分。
金澤と正式に交際するようになって、そろそろ半年が経とうとしている。香穂子にとっては、すっかり通い慣れた道となっていた。
互いに特別な用事がない限り、週末は一緒に過ごしてそのまま金澤の部屋に泊まるのが、ふたりの間での暗黙の了解となっている。今日もそのつもりで、香穂子は家を出るときにそこはかとなく天羽の家に泊まることを母親に匂わせてきた。
金澤のアパートに近付くにつれ、自然と香穂子の歩みが早くなる。
(先生、気に入ってくれるかな……)
手土産には、先月、駅前にオープンしたカフェの数量限定ケーキを選んだ。甘い物をあまり好まない金澤だが、この店のレアチーズケーキであれば、気に入ってもらえる自信が香穂子にはあった。
――少しでも早く、彼の元に向かいたい気持ちを抑え、駅前通りで時間を潰した結果の戦利品でもある。
金澤には何時に来ても構わないと言われていたし、部屋の合い鍵だって鞄に入っている。
しかし、休暇中に溜まった膨大な量の雑務をこなした金澤が、疲弊しきって布団に沈んでいるのは、予想に難くない。
せめて休みの午前中ぐらいは、時間を気にせずゆっくりと眠ってもらおう……香穂子にとっては、小言を零しながら、散らかった彼の部屋の掃除をするのも、通い妻の気分を味わえる、密かな楽しみのひとつだった。
閑静な住宅街の一角に、金澤と同じか、それ以上の築年数を誇るアパートは建っていた。
金澤の部屋は二階の角部屋で、通りからでも玄関のドアがよく見える。
「え……?」
ドアは開いていて、戸口に人が立っているのが見えた。
(女の人――?)
遠目からでも下ろした長い髪と、服装でそれが女性であると分かる。
女性の影になってはっきりと見えないが、玄関で応対しているのは、おそらく金澤だ。ふたりは親しげな雰囲気で何か話し込んでいる様子だった。
アパートの大家は年配の女性だから、見間違えようがない。隣人といった風な雰囲気でもないから、学院の関係者かもしれない。その可能性が一番高いし、そうであって欲しかった。
(どうしよう……?)
このまま平然と、二階に上がるべきなのだろか。
自分はもう高校生ではないのだから、第三者に対してこそこそする必要はない。金澤の恋人として、堂々と名乗りをあげても良いはずだ。
(やだっ、なんで……?)
そんな香穂子の意思に反して、両足はすくみ、一歩も前に踏み出せなくなっていた。暑さから噴き出すものとは異なる、冷たい嫌な汗が背中を流れる。
一向に動かない足を懸命に繰り出そうとしているうちに、ふたりの話が終わったようだ。スチール製のドアの閉まる重々しい音が、香穂子の鼓膜を震わせる。
(こっちに来る――!)
考えるよりも早く、身体が反応していた。
あれ程動かなかった両足が、嘘のように地面を蹴り上げる。香穂子は近くに立っていた電柱の陰に、素早く身体を潜めた。
女性はヒールの踵をコツコツと鳴らしながら、アパートの階段を下りる。不自然なまでに電柱に寄り添った香穂子の存在に気付くことなく脇を素通りし、駅前に向かって颯爽と歩いていった。
(すごい美人……)
すれ違い様に素早く観察しただけなので、はっきりとは分からないが、年齢はおそらく二十代後半。ベージュのパンツスーツをきっちりと着こなし、化粧も完璧……まさに香穂子が描く「大人の女性」を具現化したような、美しい女性だった。
女性の姿が完全に見えなくなったところで、ようやく香穂子は、自分が炎天下の路上に立ち尽くしていたことに気付いた。アスファルトの照り返しで、じりじりと肌が焼けてゆく。
「こ、これって……」
香穂子の脳裏に「浮気」という単語がよぎる。
うだるような残暑を忘れさせるほど、彼女の頭の中は冷え切っていた。
金澤に限って、そんなことはない。ないはずだ……。
頭を激しく振って、愚かな考えを追い払おうと試みるが、一度芽生えた疑念は簡単に拭えなかった。
最近、多忙を理由にして、金澤は自分とあまり会いたがらない。もっと端的に言えば、彼に避けられているような気がするのだ。
思えば、金澤が帰省して以来、肌を重ねていなかった。
セックスだけが全てではないが、心の距離を埋めるのに肌の接触は有効な方法だと香穂子は信じている。何より、金澤の腕に抱かれているときが一番安心できた。
――なのに、金澤はそれを拒んだ……。
恥ずかしさを噛み殺して、先週、誘いを掛けたときには、露骨に拒絶された。あの困惑しきった金澤の表情を思い出すだけで、胸がきりきりと締め付けられる。
「先生……」
香穂子は肩に掛けたトートバックのポケットから携帯電話を取り出し、短いメールを打った。
『――香穂子です。急な用事が入ってしまい、今日は行けなくなりました。ごめんなさい』
視界が涙でぼんやりと滲む。今にもしゃくり上げそうになるのを懸命に堪えながら、香穂子は来た道をとぼとぼと引き返す。
つい数分前まで、食べるのを楽しみにしていたケーキの箱が、やけに重たく感じられた。