いと
高く、刃と刃がぶつかる衝撃音が響いた。
そうして、彼を襲うはずだった凶刃は、彼を刺し貫こうともしなかった。
――目を見開く。
彼の目の前で、長い髪が揺れている。見たことのある背は、誰でもない、白龍の神子のものだ。
神子は、武士の刀を、しっかとその剣で、受け止め、また相手をきつく睨んでいる。
「神子、殿……?」
何故ここにいる、と問いたかったが、視線だけ寄越してきた彼女は、下がって、と叫ぶように言ってきた。その勢いに負けたように、泰衡はその言葉に従っていた。
そうして、彼女は舞うように腕を動かし、相手の刀を強く押し出した。うわあ、と情けない声を上げ、男は数歩背後に下がる。その脇にもまだ、別の襲撃者がいる。こちらは、泰衡を見つつ、しかし鋭く二人の刺客を睨みながら剣を構える少女の視線の前に、怯みがちだ。
「どうして、この人を殺そうとするの!」
「――御館に仇なす者だ。生かしておけば、御館のお命に関わる!」
負けじと叫んでいるものの、彼らは完全に彼女に気圧されているらしかった。冷静にそれを見ているつもりが、彼自身も、彼女の登場とその勢いに飲まれている。
「秀衡さんは、全て承知で泰衡さんに家督を譲ったの。この人を殺すことは、秀衡さんの意志に反すると言うことよ! 分かっているの!?」
「――っ!」
言葉は何一つ、出てこなかったようだ。
そのとき、彼らの背後から、人の足音と声とが近づいてきた。はっと、襲撃者はそちらを振り返り、慌てて泰衡の脇をすり抜け、逃げていく。泰衡をちらと見る余裕もなかったようだ。
今目の前にある少女の背のあちら、まっすぐ伸びた道筋の遠くに、人の姿がいくつか見える。九郎たちらしい。
白龍の神子は、そっと泰衡を振り返りながら、彼の姿を瞳に映すと、――ふいにその顔に、怒りに近い表情を浮かべた。
「来ないでって、手紙に書いたのを、読んだんじゃなかったんですか!」
今までにないほどの罵声に近い声音に、僅かに怯みそうになったものの、泰衡はしかしその自尊心を保つため、逆に睨むように彼女を見やった。
「――ああ、読んださ」
「それじゃあどうして、ここに来たんですか! 殺されそうになったんですよ、分かっているんですか!?」
「分かっている」
「信じられない! どうしてそんな平然としているのよ! どれほど、私が……わ、たし――」
唐突だった。その双眸から、大粒の雨のような、それほどの涙が流れ出したのだ。
言葉を失うと、彼女は、俯きながら、どうにかその涙を己の掌で拭い、もう一度まっすぐに顔を上げた。そうして、いつでもそうだったように、鋭く彼を見つめる。
「生きて、いますか?」
「……ああ」
頷くと、少女の顔には、僅かに笑みが浮かんだ。
「……良かった」
茶吉尼天を滅したあのときよりも、さらにそこには、強い安堵が窺えた。
どうしたことか、苛立つような感覚を思い出した。しかし、たった今、それを感じているわけではない。思い出しただけだ。
答えを、見た気がする。
「俺が、殺されそうになることも、あなたは知っていたのか?」
「――ええ」
問いを耳に入れた途端、神子の表情は曇った。その答えは、彼が予想していた通りのものだ。
「なぜ、ここにいる? 帰るのではなかったのか?」
「……あなたが、もしも、見送りに来てしまったら、殺されてしまうと思ったから」
「俺を助けるために、ここにいたのか?」
そうです、とはっきり彼女は口にした。
九郎たちが、ようやく近づいてきたようだ。望美、と彼は呼び、それから、泰衡殿、と安堵したような声音で言う。
しかし、泰衡は彼を一瞥しただけで、また、望美のことを見やった。九郎らとともに、八葉はほぼ全員揃っている。しかし、足りない。彼女と同じ世界から来たのだという八葉が二名、ここにいない。
「あなただけ、何故ここにいる?」
「……私一人で、成し遂げなければいけないと、思ったんです」
その瞳は、やはり強い意志の感情を持ち、泰衡を見上げてくる。しかし、その端には、涙が覗いていた。瞬き一つで、その頬を零れる。
何故、と問わなかった。しかし、そう思ったことを、彼の表情から察したのか、彼女はどこか自嘲するような笑みを見せる。
「罪を、犯しました。私の愚かしさが、世界を歪ませた」
意味が分からなかった。しかし、彼女はそのことについて、詳しく語る気はないらしかった。
その手を、ふと伸ばし、泰衡の袖の辺りを僅かに握った。瞳は、過たず、彼を映し出すのだ。
「あなたの命を、失いたくなかった。だから、罪を犯したんです――」
目を瞠り、そこに彼もまた、彼女の姿だけを映していた。
――ただ、生きて欲しいだけ。
以前、彼女は泰衡が投げた問いかけに、そう答えた。何故、泰衡の未来を知り尽くしているのかを、訊ねたときのことだ。
父である人の――彼が奪おうとした命ではなかったのだと、今、初めて知らされた。
彼女が生きて欲しいとそう告げてきたのは、誰でもない――泰衡自身のことだったのだ。
「……この先、俺はどうなる?」
未来を知ると言うのなら、と訊ねると、白龍の神子は否定するかのように頭を振る。
苦しげに眉を寄せ、いいえ、と答える。
「知りません。……私が知っていたのは、あなたがここで、死んでしまうことだけ」
その運命を変えたかったの、と零された彼女の声は、泰衡の耳を打つ。彼女の中に、ひた隠されていた、真実を垣間見た心地がする。
彼の袖を握る彼女の手に、ふと空いた手の指先で触れると、彼女は不思議そうな顔をして、彼の顔を見上げてきた。
「この先の、俺の未来を見るつもりは?」
「……え?」
分からぬと訴える表情に、泰衡は呆れたくなったものの、しかし堪えた。
自分の生死のために泣いた人間を、冷たくあしらうのは如何なものかと考える。
周りにいる人間の耳に入ることが疎ましい。奇異なものを見るような、九郎の視線は、最も鬱陶しいものだった。
僅かに腰を屈め、彼女の顔を覗けるほど近くに見る。これほどの位置でならば、小さな声で彼女にだけ告げることもできよう。
「平泉に残る気はあるかと、訊いている」
見開かれた円らの双眸には、泰衡自身の不機嫌極まりない表情が映り込んでいる。どうにもやりにくくて、仕方がないのだ。
そう思っていると、彼女の頬に、僅かに朱が差した。それまで失っていた精気を、もう一度得たかのように。
「いいんですか?」
訊ね返される。とうとう我慢しきれず、表情は呆れ顔そのものへと変わってしまっていた。
「悪いと思えば、初めから問うわけもない」
「私、誰にも言えない罪を犯しました。それでも、いいんですか?」
重ねて問うてくる。この娘が、これほどに慎重な人間だとは思ってもいなかった。
「……俺を救うため、犯した罪だと言うのなら、受け入れぬ道理もない」
「いいんですか?」
「だから、いいと言っているだろう」
声を荒げそうになりながら答えると、そうですね、と茫然自失の様子で彼女は呟き、やがて――微笑んだ。
おかしなものだが、彼はこのとき、僅かに緊張していた。何をそれほど、体を硬くする必要があるのかと、自身を叱咤したいほど。
それから。