イン・ハー・ルーム
ため息を吐き、この部屋で寝床から一番遠ざかれる場所に座った律はその上膝まで抱えてもっと小さくなれるように縮まる。石のように堅い敷布団、湿った匂いのする羽根布団、そろいのふたつの枕。ひとつはくたびれていて、もうひとつのほうがあきらかに高く見える。
耳を済ますと、ドライヤーの音の中にエアコンのたてる、かすかな風音が聞こえるような気がした。かと思うとドライヤーが止められ、このときばかりはうきうきした足取りで澪がリビングに戻った。その証拠に、彼女が律に向き直ったのは横になってからだった。一度潜り込んでから、上半身だけ起こして怪訝そうにこちらをまじまじと見つめる。
「律、そんなところでなにやってるんだ?」
「別に」
「拗ねてるのか?」
「別に」
「なら、おいで」
言ったのに反応しない律を見て、素早くふとんを剥ぎ取って澪がこちらにやってきた。
「それとも、ほんとうに拗ねちゃったのか?」
「するのはいつも澪じゃんか」
「そうじゃなくて、共同作業だと思うよ、私は。それにやっぱり拗ねてる」
「拗ねてないって言ってる」
「律」
言い聞かせようとしているのだ、ととっさに思った。澪は言い聞かせようとしている。もしくは誘おうとしている。
「いいか、厳しいことを言うようだけれど、私は律がいなくたって十分生きていかれるんだ。私たちはそういう時代に生きてるんだ。ここに、部屋の中にいて、なんでもできる。律が自立しているのも、外に出て働いてるのも、私にごはんを作ってくれるのも、ほんとうは必要ない。それは全部、律の勝手」
「なら澪は私なんかいらないんだ」
「むしろ、逆なんだけどな」
「……どういう意味」
「いつも言ってるじゃないか。私は律にここに一緒にいて欲しい。なのに律が出て行ってしまうから、仕方なく、仕方なく待ってるだけで」
「なんだよそれ」
「愛の告白」
ひとつ、軽いキスを額に落とされる。生乾きの髪が頬に触れる。澪がにっこり笑い、律とあたたかい指を絡めた。
律の疑問は澪の陶酔の中に置き去りにされた。それはたしかにいつものことだった。
「しようよ、律。私は今日、律とセックスがしたいよ。だって、もう律を見ちゃったんだ。いや、律が入ってきたときから、声を聞いたときから、ずっと我慢してたんだぞ?」
それでそういうことになった。
勿論、ふたりともふとんに入ってから。
翌日、律は6時に起き(自宅よりもこのマンションのほうが律の勤め先に近い)焼き鮭と卵焼きと切り干し大根の和え物と味噌汁と白米の朝食を丁寧に作り、澪を起こし、ふたりで食べた。今度は澪は食べるのが早くなっていて、それを彼女は昨夜運動したからだと笑って言った。だから律がもっと頻繁に来てくれれば私はもっと健康的になれるよ、とも。
「あ、虹」
律が身支度を終えたころには食べ終わっていた澪に洗い物は任せて外に出ると、青空の上にうっすらと七色の橋がかかっていた。地面はうっすら濡れている。昨夜雨が降ったことに、ふたりとも気づかなかったのだ。
今の澪がどうかは分からない。
できることなら律はロマンチックな高校生だった澪にこの虹を見せて、彼女の書く甘ったるい歌詞を読みたいと思った。