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架月るりあ
架月るりあ
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希望に満ちた未来を信じて

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五十年のときを経て復活した闇の王子。その彼が現在ではクロワ・ラウルというひとりの人間として生きていることを知っている者は、ごくごく少数だと関係者の誰もが思っていた。しかし、それは大きな誤りだったことを、彼らは知った。闇の王子クロワ。その過去は、消すことなど出来ない。
 これは大きな罪を背負った彼が、希望に向かい大きな第一歩を踏み出すきっかけとなった事件である。


―――希望に満ちた未来を信じて―――


「クロワ! 起きて! もう朝よ!」
 夜のあいだ静寂が支配していた寝室に、明るい声が響いた。それは少女というには少々大人びた印象の女性だった。桃色の長い髪を揺らしながら、彼のベッドへと歩み寄る。頭まですっぽりと布団をかぶっている彼の姿を見ると、彼女は軽くため息をついた。一緒に暮らし始めてわかったのだが、彼は朝にめっぽう弱いらしい。朝寝坊は当たり前。枕の周りに五個もの目覚まし時計を常備しているにもかかわらず、今まで一度たりとも自分で起きてきたためしがない。
 頭の布団をそっとめくってみる。するとそこには天使のような寝顔があった。

「……ほんとうに、幸せそうな寝顔なんだから」

 あの悪夢のような過去を受け止め、それでも生きるという決断を下した彼。しかしこの寝顔を見ていると、それすら夢だったのではないかと思わせられる。穏やかで幸せそうな寝顔。

「……まったく、起こす気が失せちゃうじゃないの」

 彼女は柔らかく微笑み、夢の中にいるであろう彼の頬にそっとキスを落とした。

「ほーら、朝よ。いい加減起きて」

 彼の顔をのぞき込んでみる。すると彼はようやく夢から覚めたようで、ゆっくりと瞼を開いた。寝癖でぼさぼさの頭を掻きながら、緩慢な動作で上半身を起こす。

「おはよう、クロワ」

 紺のワンピースに白いエプロンを着て穏やかな笑顔を見せる彼女。クロワはそんな彼女を呆けたように見つめると、一言。

「……ん。プリエ……? おはよ……」

 それだけ言うと、クロワはまたベッドに倒れ込んでしまった。そして目を見張るほどの速さで、再び眠りに落ちた。すうすうと規則正しい寝息が聞こえる。しかし二度寝などあのプリエが許すはずもなく。プリエは今度は精一杯大きな声で、彼の耳元で思いっきり叫んでやった。

「こんの……! 起きろ!」







「ったく。朝っぱらから叫ぶなよ。近所迷惑だろ」

「起きないクロワが悪いのよ」

 リビングにて。無理矢理起こされたクロワがぶつぶつ文句を言っているそばで、プリエは楽しげに笑いながら朝食を準備する。今朝のメニューはスクランブルエッグにパン、そして暖かいミルク。パンに塗るジャムは、イチゴジャム・マーマレードジャム、ブルーベリージャムなどが自由に選べるように揃えてある。

「……そんじゃ、いただきます」

 クロワが好むのは甘さ控えめのブルーベリージャム。このほんのりとした酸味がいいのだとか。甘いものが好きなプリエにはあまりわからないが、逆にクロワが甘党だったらと考えると、そうでなくてよかったと思う。

「ん。この卵、美味いな」

「スクランブルエッグ! 卵なんて言い方しないでよね」

「卵は卵だろ。でもま、美味いからこの際どっちでもいいさ」

 そう言って、クロワはにかっと無邪気に笑う。屈託のない、まるで子供のような笑顔。その笑顔が見たくて、プリエは彼の好みの料理を日々練習しているのだ。そんなこと、本人には絶対に言えないけれど。
 それに、クロワはプリエの料理をまずいと言ったことは一度もない。彼なりに気遣ってくれているのだろう。その優しさが、とてもいとおしい。病気なのではないかと思えるくらいに、彼のことが好きで好きでたまらない。彼女の性格上、素直にそれを伝えられないのだが、クロワはそんな彼女をちゃんと理解している。

「……今日。だよな」

 クロワの声のトーンが幾分か低くなった。その『昨日』が意味するのは。

「……うん。そうだよ。今日が、アルエットの命日。あなたの誕生日よ」

 そう、今日この日こそ、ノワールとの決着がついた日。クロワが人間として生きることを始めた日。そして、アルエットが天に召された日でもある。アルエットは、クロワを救うために自ら犠牲になった。戦いを終えてすぐにパプリカを出たクロワは、未だアルエットの墓参りに一度も行っていなかったのである。

「そろそろ行く? アルエットも、きっとクロワが来るの待ってるよ!」

 沈んだ表情を浮かべるクロワの頬を、指でつんと突く。

「ほら、笑って? アルエット、涙は嫌いだから」

 しかし、クロワの心の重荷は消えない。罪悪感という名の心の重り。自分の命は、アルエットの犠牲の上にある。彼女の死の上に、自分は立っている。そう思うだけで、胸が張り裂けそうになる。
 そんなクロワを見つめるプリエもまた、複雑な思いだった。あのときの選択。それは果たしてほんとうに最善策だったのかと。もしかしたら、クロワとアルエット、ふたりとも助けられる方法があったかもしれない。
 それなのに、自分はクロワを選んだ。それが果たして正解だったのか。彼女もまた、心に葛藤を抱えていた。



 海が見渡せる丘の上。そこにアルエットの墓が建てられている。きっと彼女はここから、自分たちを見守ってくれているのだろう。誰より優しいアルエットだから。
 墓の前で祈りを捧げるプリエの傍らで、クロワは持参した花束をそっと捧げた。自分には、これくらいしか出来ないから。フィアンサーユの花。もとは恋人たちが縁結びにと贈る花なのだが、クロワはあえてこの花を選んだ。アルエットの心が、魂が、ずっと自分たちの中で生き続けられるように。そんな願いを、こめて。
 蒼く澄んだ空という海に、純白の雲が漂う。
風はふたりの髪を揺らし、さわさわと草花の間を音を立てて駆け巡って去っていく。
 あんな悪夢など初めから無かったかのように。あんな悲劇など、起こらなかったかのように。
 ふと、クロワの頬に一筋の雫が伝った。

「……クロワ?」

 それに気づいたプリエが、そっとクロワの背中に身を寄せた。互いのぬくもりが伝わる。

「悔しいのはあたしも同じよ。だから……あたしのぶんまで泣いてくれる? あたしは、もう泣けないから」

 そう。最後にアルエットと交わした会話のなかに、彼女のこんな言葉があった。

「光の聖女の名の下に、以後、わたしのことで涙を流すのを禁じます」

 アルエットの笑顔が、鮮明に脳裏に浮かぶ。大切なひとに、笑っていてほしい。その気持ちはよくわかる。彼女の気持ちがわかるからこそ、プリエはその言葉通り、あれからアルエットに関しては涙を流すことはなかった。
それに、彼女が泣かない理由はもうひとつある。アルエットの死を一番悔やんでいるのは、おそらくクロワだからだ。彼はとても優しい心を持っている。それゆえに、彼女の死を自分のせいだと思い込んでしまっていることに、彼女は気づいていた。
 一番辛い思いをしているクロワの前で、泣くわけにはいかない。強がりとも言えるが、それも彼を思ってのことだった。