マイスタンダード
その口ぶりがまるで学生のときのそれみたいで、ぼんやりとトキヤが伏せ目勝ちに喉を鳴らせるその仕草が何故だかとても遠く感じて、音也はじっとその横顔を見つめた。
どうして起きているのかと言われても、トキヤの夢を見た、とは内容の所為でなんとなく答えられない。
だから、目の前の横顔をじっと見つめたが、黒い髪が透ける様に白い肌に流れ、長い睫毛が落とす影は、結局何も読み取らせてはくれなかった。
その不安が、また何かを呼び起こす。
緩やかになる空気は何時も何か知らなくていいことまで引き出してくるから困る。知らなくていいことは知らないままで居たいのに、気付きたくないことに気付かされるのはとても怖い。
だから、音也は誤魔化すように穏やかに笑って見せた。
「トキヤこそ今日は仕事も詰まってたし、用事もあるって言ってたのに」
疲れてるんじゃないの。なのに、台本届けてくれてありがとう。
本心を見せまいとするのは、心配させない為か、自分を守る為か、もうわからない。
「…ああ、私は平気です。慣れてますから」
その、思い出したように伏せ目勝ちに洩らした声に、何か引っ掛かった音也は、その時トキヤが腹の中で何かを飲み込んだような気がした。けれど、咄嗟に引きとめようと口を開いた途端、トキヤはゆったりと落ち着き払った仕草で腰を上げ、音也を少しだけ振り返る。
「では帰ります」
「え!」
「用は済みましたから」
もう全くいつも通り何てことの無い飄々とした態は、拒絶されているような気すらしたが、トキヤの素っ気無い言葉につい目を丸くした。
「ホントに台本を返すためだけに来たの?」
「それ以外に何の用があるというんです」
「だって、だってさ」
「部屋が隣なんですから問題ありませんよ」
だから、その低く囁かれた言葉と自分を見ようとしない横顔のあまりのやさしさに、音也は不意に全てを悟ったような気がした。
(嘘つきなトキヤ。本当に用があるのは、トキヤじゃなくて俺だって、知ってたんだろ)
「トキヤは、…」
全て見透かしていたのだろうか。
そう思った途端、音也は突然霧がさっと晴れるように視界が開け、心は諦観と韜晦に暮れた。まるで絶望して陽が沈むように暮れていくから、目の前が真っ暗に染まっていく。
「やさしいよね」
無くしたはずの台本をどうしてトキヤが見つけたのか、それをこんな時間に返しにきてくれたのか、その理由の全てがわかったような気がした。
「…いきなり何の話ですか」
心当たりが全く内容に振舞うトキヤは、それでもその目が僅かに揺れて、ああなんて自分は安っぽいのだろうと音也は心底自分が嫌になる。惨めだ。トキヤといるといつも惨めになる。大切にされればされるほど自分にそんな価値はないのにとか、色々考えなくていいことまで考えさせられる。
昼間、たった一度縋ってしまった音也をトキヤは覚えていたのだ。きっとそれだけだ。縋った手を覚えていていたから、トキヤは口実を作ったのだろう。音也の鞄から台本を盗り、これを届けることで縋った音也の弱さに報いようとしてくれている。
それを思えば思う程、あの夏の日、トキヤの手を取れなかった後悔が今になって滲んでくる。トキヤの誠実さを前に、音也は自身の臆病を恥じた。後一歩の勇気が足りなかったことがまるで裏切りのように感じたのは、こういう温度差だったのかもしれない。
やさしさに、追い詰められる。
泣きそうだ。
「わからないふりとか、しないでよ」
「本当にわからないといってるんです」
「嘘ばっかり、…やさしい、嘘ばっかりだ。わかってるくせに」
「音也」
責めるような、トキヤの声がいぶかしんでいる。
「ねぇ、トキヤ」
顔を上げて、トキヤを見つめた。
真っ暗な部屋でも、トキヤの目はいつもと変わらず輝いて、その分だけ、胸が締め付けられるみたいに苦しい。その誠実さと、やさしさとに、苦しめられるなんて、きっとトキヤには理解できない。
「いざとなったら、ちゃんと俺のこと捨ててね」
「…意味がわかりません」
トキヤが、いざとなったら自分を捨てられないような気がして、それが彼の足を引っ張るような気がして、いつだって一番幸せでいて欲しいのに、誰でもない音也自身が全てを邪魔しそうで、それが怖い。
きっと触れるだけで甘い棘のように痛い感情を抱えたまま、音也は目を閉じた。
こんな風に満たしてやれない関係は、恋じゃない。
「…寝ぼけてるんですか」
「トキヤ」
「…また明日聞きます」
(また明日)
そんな先延ばしにしたって何にもかわらないのに。
さっと踵を返したトキヤの背中を盗み見るように、音也はぽつりと誓うように囁く。
(離れてしまった方が楽だと言って切り捨ててほしいのはトキヤのためで、これ以上惨めな気分になりたくないための保身だということも、きっとトキヤはわかってる)
「俺、もう二度と台本なくさないよ」
トキヤに届けてもらわなきゃならないようななくしものは、二度としない。
何処か遠くを見つめる音也の、それだけの意味ではない不穏なそれに振り向いたトキヤの目に、それでも音也はこれからくる春のたおやかな空気のように微笑む。
(どうして、大切にされることがこんなに苦しいんだろう)
「俺、トキヤが俺を忘れるためなら、何も怖いことなんかないよ」
これだけは、本当だよ。
けれど、トキヤは何も答えることはなく、ただ、胸を締め付けられるような痛みに耐えるのに必死で、どんな誠実さも音也を苦しめしかしないと思うと、どんなに止めようと思っても打ち震える指先を白くなるまで握り締める事しかできなかった。
(いっそバカと罵って殴り飛ばしてこのバカの目が覚めるならよかったのに!そうもいかない忌々しい現実の苦さに反吐が出る!)



