堕落者16
この子供の体になって、鈴から授かった能力の副作用に伴って、私は泣き止まなかった。とうとう近くにいた教諭も訝しがり、私の元へ来る。私は目にゴミが入ったと繰り返し言った。そんな私を、彼女は保健室へ連れて行く。
「二人に虐められたの」
しゃっくりも落ち着いた頃、私をここまで連れてきた教諭が、そう尋ねた。私は力いっぱい、首を横に振った。
「目が痛いの」
そうして大人達の思い違いに意識を向けられるようになった頃、私の涙は止まった。傍にいた養護教諭は、私の言う事を信頼し、私の目を覗いてくれたが、問題ないと言って、私は教諭と共に追い出された。
教室に行くと、跡部は先にいた。先回りに、目のゴミは取ってもらったと言えば、跡部はもう、私の涙を気にしなかった。二回も人前で泣いてしまったという事実だけが、私を辱めていた。
彼らが私に疑問を持つ事は無かった。夏は真っ盛りになり、八月には夏休みになる。
「跡部たちは何か予定あんのかな」
「跡部景吾は親と出かける事が多くなる。樺地崇弘も付き添う」
「あーなるほど」
夏休みの間、電話が鳴る事すら無かった。私が自分から誘う事も無かった。週一にあるピアノをテレポートで送迎してもらいつつ、家に閉じこもって本や画集を読み漁っていた。そうしてまんまと猛暑から逃れた私は、幼稚舎のプールで焼けた肌もすっかり白くなり、一ヶ月ぶりの登舎時には、周りから浮いているようだった。
しばし会っていなかったが、教室に入るとすぐ跡部は寄ってきて、挨拶代わりに腕が完治したのかを尋ねてきた。私なんかは、腕の事をすっかり失念していたので、言いよどんでしまう始末だった。
跡部は自由遊びの時間いっぱいを使って、夏休み中の事を報告してくれた。ハワイに行って肌が赤くなって痛かっただの、ヨーロッパの町並みは感慨深かっただの、ギリシャの遺跡は素晴らしかっただの、そのような事を私に伝えた。
彼の旅行には、むーちゃんも同行していたらしい。
「君ともいっしょに行きたかったよ。だけどお母さまが、あちらの家にも予定はあるだろうって言ったんだ」
そうだろう。跡部がわがままを言ってくれたとしても、私とむーちゃんとでは立場が違う。
「君は夏休みどこへ行ったんだい」
「美術館巡りかな」
跡部のお母様のためにも、せめてそう言って惚けて置いた。
お月見や運動会と、幼稚舎の行事もあっという間に過ぎていく。十月に入ると、跡部は私に手紙を手渡した。
「ぼくのおたんじょうび会にご招待だぞ」
丁度、私の誕生日の日だった。
「家族で過ごさないの」
「いつもはそうだったけどね。樺地も来るし、お母さまがさそうようにって言ってくれたんだ」
断るにも断れず、そして私は、大いに悩む羽目になってしまう。
跡部へプレゼントを贈らなければならない。あの跡部に、だ。欲しいものは全て、彼の親から与えられているに違いない。しかし、今までの感謝の気持ちを表す、良い機会ではあった。
「どうするの、鈴」
四歳児の私に、プレゼントを選ぶ事は出来ない。捜し選ぶのは私の親となっている鈴だ。
「テディベアを贈る」
音も無く、目の前に出現し、私は慌てて腕の中に収める。金色の毛に黒い目の、首の赤いリボンが可愛らしいテディベアだった。耳には黄色いタグが付けられている。エス、ティー、イー、アイ、エフ、エフ。
「す、すたいふ?」
「シュタイフだ」
「会社の名前?」
「ああ」
改めて抱きかかえてみると、中々良い抱き心地だった。ぬいぐるみについて詳しく知らないが、贈って変な意味も無かったと思うので、これで手を打つ事にする。鈴にラッピングするように頼むと、テディベアは宙に浮き、くるくると紙やらリボンやらに包まれて、再び手の中に落ちる。
「これでいいか」
私は頷いた。手元には、華やかに彩られたクマがこちらを見つめていた。
十月十四日の当日、幼稚舎から一度家に帰り、鈴に服をあしらえてもらう。茜色のベロア生地に、胸から下がチェック柄の、シンプルなワンピースだ。下にはパニエを着て、スカートをふんわりと見せれば、ドレスに見えなくも無い。少しのフォーマルささえあれば、私には申し分なかった。服と同じ色のエナメルシューズと肩掛けポーチも用意させる。
五時頃になって鈴と共にマンションの外に出ると、車で迎いが来ていた。運転手と鈴は軽く挨拶をし合い、運転手が後部座席のドアを開いてくれ、私は乗り込んだ。鈴に手を振って、車は発進する。
プレゼントを手で弄び、ちらちらと窓の外を眺めながら、到着を待つ。車の中には私のためなのか、いくつか人形が用意されていた。どれもフリルの煌びやかなドレスを着ていて、上向きにカールされた長い睫毛が、車の振動と共に揺れている。小さな口元の笑みは、まるで私を嘲笑っているかのようだったので、手に取る事もなかった。
三十分と経たない内に、大きな門に差し掛かった。通り過ぎて、後ろの窓から外を覗けば、ゆっくりと門が閉じられていくのが見える。道はまだ続いていて、左右には庭が広がっていた。シメントリーになっているのだと眺めている間も、まだ車は止まらない。きれいに剪定された木々が、瞬く間に過ぎては通る。座席に遮られ狭まった前方の窓には、洋館が見えた。
よく書かれていた呼称に反映されてか、昔写真か何かで見たバッキンガム宮殿に似た景観だった。建物の前には大きな噴水があったが、彫刻は無く、黄金の天使の像すら居ない。建物にイギリス国旗が掲げられている訳も無く、白煉瓦の壁は夕日でオレンジ色に染まっている。
車から下ろされると、エプロンドレスに身を包んだ女性が二人、私へお辞儀した。お疲れ様でしたと挨拶を終えると、私を連れて玄関に向かう。大きな扉の前へ着くと、二人で開いて私を招き入れる。
私を迎えた女性二人が扉を閉める間に、別の女性が私に声を掛ける。彼女に従い付いて歩きながら、私はきょろきょろと辺りを見回していた。天井にはクリスタルをあしらった豪華なシャンデリアがぶら下がり、その煌きは絨毯と壁の赤と白とのコントラストを強調させている。壁には細やかに模様が刻まれていて、隅々まで見えるこの目がチカチカした。艶やかさに酔いそうになりながら、長い廊下を歩かされる。その間、エプロンドレスを身に着けた女性を何人も見かけたが、老若様々だった。
「こちらになります」
そう言って扉の開かれた先は、案外広くない部屋だった。そう思うのは、私の想像が行き過ぎていたためで、私のマンションのリビング四つ分の広さはある。無駄に長いダイニングテーブルを思い描いていたが、部屋に置かれていたのは四人掛けの椅子と、それに見合ったテーブルだった。それでも、普通のテーブルより余分に広く思える。
手前には、二人掛けのソファが向かい合わせに置いてあり、一つには女性が座っていた。こちらに気付くと立ち上がって、私を見た。
飾り気の無い、光沢の美しいドレスを着たその女性は、私をここまで連れてきてくれた女性にご苦労様と声を掛け、部屋から出させた。
「こんにちは、いえ、こんばんはかしら」
「こんばんは」
「二人に虐められたの」
しゃっくりも落ち着いた頃、私をここまで連れてきた教諭が、そう尋ねた。私は力いっぱい、首を横に振った。
「目が痛いの」
そうして大人達の思い違いに意識を向けられるようになった頃、私の涙は止まった。傍にいた養護教諭は、私の言う事を信頼し、私の目を覗いてくれたが、問題ないと言って、私は教諭と共に追い出された。
教室に行くと、跡部は先にいた。先回りに、目のゴミは取ってもらったと言えば、跡部はもう、私の涙を気にしなかった。二回も人前で泣いてしまったという事実だけが、私を辱めていた。
彼らが私に疑問を持つ事は無かった。夏は真っ盛りになり、八月には夏休みになる。
「跡部たちは何か予定あんのかな」
「跡部景吾は親と出かける事が多くなる。樺地崇弘も付き添う」
「あーなるほど」
夏休みの間、電話が鳴る事すら無かった。私が自分から誘う事も無かった。週一にあるピアノをテレポートで送迎してもらいつつ、家に閉じこもって本や画集を読み漁っていた。そうしてまんまと猛暑から逃れた私は、幼稚舎のプールで焼けた肌もすっかり白くなり、一ヶ月ぶりの登舎時には、周りから浮いているようだった。
しばし会っていなかったが、教室に入るとすぐ跡部は寄ってきて、挨拶代わりに腕が完治したのかを尋ねてきた。私なんかは、腕の事をすっかり失念していたので、言いよどんでしまう始末だった。
跡部は自由遊びの時間いっぱいを使って、夏休み中の事を報告してくれた。ハワイに行って肌が赤くなって痛かっただの、ヨーロッパの町並みは感慨深かっただの、ギリシャの遺跡は素晴らしかっただの、そのような事を私に伝えた。
彼の旅行には、むーちゃんも同行していたらしい。
「君ともいっしょに行きたかったよ。だけどお母さまが、あちらの家にも予定はあるだろうって言ったんだ」
そうだろう。跡部がわがままを言ってくれたとしても、私とむーちゃんとでは立場が違う。
「君は夏休みどこへ行ったんだい」
「美術館巡りかな」
跡部のお母様のためにも、せめてそう言って惚けて置いた。
お月見や運動会と、幼稚舎の行事もあっという間に過ぎていく。十月に入ると、跡部は私に手紙を手渡した。
「ぼくのおたんじょうび会にご招待だぞ」
丁度、私の誕生日の日だった。
「家族で過ごさないの」
「いつもはそうだったけどね。樺地も来るし、お母さまがさそうようにって言ってくれたんだ」
断るにも断れず、そして私は、大いに悩む羽目になってしまう。
跡部へプレゼントを贈らなければならない。あの跡部に、だ。欲しいものは全て、彼の親から与えられているに違いない。しかし、今までの感謝の気持ちを表す、良い機会ではあった。
「どうするの、鈴」
四歳児の私に、プレゼントを選ぶ事は出来ない。捜し選ぶのは私の親となっている鈴だ。
「テディベアを贈る」
音も無く、目の前に出現し、私は慌てて腕の中に収める。金色の毛に黒い目の、首の赤いリボンが可愛らしいテディベアだった。耳には黄色いタグが付けられている。エス、ティー、イー、アイ、エフ、エフ。
「す、すたいふ?」
「シュタイフだ」
「会社の名前?」
「ああ」
改めて抱きかかえてみると、中々良い抱き心地だった。ぬいぐるみについて詳しく知らないが、贈って変な意味も無かったと思うので、これで手を打つ事にする。鈴にラッピングするように頼むと、テディベアは宙に浮き、くるくると紙やらリボンやらに包まれて、再び手の中に落ちる。
「これでいいか」
私は頷いた。手元には、華やかに彩られたクマがこちらを見つめていた。
十月十四日の当日、幼稚舎から一度家に帰り、鈴に服をあしらえてもらう。茜色のベロア生地に、胸から下がチェック柄の、シンプルなワンピースだ。下にはパニエを着て、スカートをふんわりと見せれば、ドレスに見えなくも無い。少しのフォーマルささえあれば、私には申し分なかった。服と同じ色のエナメルシューズと肩掛けポーチも用意させる。
五時頃になって鈴と共にマンションの外に出ると、車で迎いが来ていた。運転手と鈴は軽く挨拶をし合い、運転手が後部座席のドアを開いてくれ、私は乗り込んだ。鈴に手を振って、車は発進する。
プレゼントを手で弄び、ちらちらと窓の外を眺めながら、到着を待つ。車の中には私のためなのか、いくつか人形が用意されていた。どれもフリルの煌びやかなドレスを着ていて、上向きにカールされた長い睫毛が、車の振動と共に揺れている。小さな口元の笑みは、まるで私を嘲笑っているかのようだったので、手に取る事もなかった。
三十分と経たない内に、大きな門に差し掛かった。通り過ぎて、後ろの窓から外を覗けば、ゆっくりと門が閉じられていくのが見える。道はまだ続いていて、左右には庭が広がっていた。シメントリーになっているのだと眺めている間も、まだ車は止まらない。きれいに剪定された木々が、瞬く間に過ぎては通る。座席に遮られ狭まった前方の窓には、洋館が見えた。
よく書かれていた呼称に反映されてか、昔写真か何かで見たバッキンガム宮殿に似た景観だった。建物の前には大きな噴水があったが、彫刻は無く、黄金の天使の像すら居ない。建物にイギリス国旗が掲げられている訳も無く、白煉瓦の壁は夕日でオレンジ色に染まっている。
車から下ろされると、エプロンドレスに身を包んだ女性が二人、私へお辞儀した。お疲れ様でしたと挨拶を終えると、私を連れて玄関に向かう。大きな扉の前へ着くと、二人で開いて私を招き入れる。
私を迎えた女性二人が扉を閉める間に、別の女性が私に声を掛ける。彼女に従い付いて歩きながら、私はきょろきょろと辺りを見回していた。天井にはクリスタルをあしらった豪華なシャンデリアがぶら下がり、その煌きは絨毯と壁の赤と白とのコントラストを強調させている。壁には細やかに模様が刻まれていて、隅々まで見えるこの目がチカチカした。艶やかさに酔いそうになりながら、長い廊下を歩かされる。その間、エプロンドレスを身に着けた女性を何人も見かけたが、老若様々だった。
「こちらになります」
そう言って扉の開かれた先は、案外広くない部屋だった。そう思うのは、私の想像が行き過ぎていたためで、私のマンションのリビング四つ分の広さはある。無駄に長いダイニングテーブルを思い描いていたが、部屋に置かれていたのは四人掛けの椅子と、それに見合ったテーブルだった。それでも、普通のテーブルより余分に広く思える。
手前には、二人掛けのソファが向かい合わせに置いてあり、一つには女性が座っていた。こちらに気付くと立ち上がって、私を見た。
飾り気の無い、光沢の美しいドレスを着たその女性は、私をここまで連れてきてくれた女性にご苦労様と声を掛け、部屋から出させた。
「こんにちは、いえ、こんばんはかしら」
「こんばんは」