堕落者16
ウェーブがかった長い黒髪が、柔らかく肩から滑り落ちる。それが、穏やかな笑みに薄い影を作った。彼女は物腰柔らかく、私へ語り掛ける。
「景吾さんの母です。凛さん、だったかしら」
「はい、天笠凜です」
「ふふふ、そう固くならずとも良いのよ。今日は四人きりのお誕生日会だものね」
「四人?」
「そうよう。私でしょう、あなたでしょう、景吾さんに、崇弘さん」
そう指折り数えて、か細いその指をこちらへ向ける彼女は、どこか誇らしげだ。
父親はどうしたのだろう。祖父母は来ないのか。四歳児の私はそれに疑問を持って質問していいのだろうか。
「あの、跡部とむーちゃんは」
「むーちゃん?……崇弘さんの事かしら?」
「はい」
親切に景吾君と崇弘君と呼べば良かったのだろうが、私が四歳児の時に、そんな気は回らない。
「良いわねそれ、かわいくて。私もそう呼ぼうかしらねえ。あら、けれど、あなた景吾さんは苗字なのね」
「はあ」
「崇弘さんがむーちゃんなら、景吾さんはけいちゃんでも良いんじゃないかしら。あらあら、かわいい。良いと思わない?私、良い事思いついちゃったわあ」
そう一人呟いて、きゃらきゃらと笑っている。私はおずおずと口を開いて言った。
「跡部とむーちゃんは」
「あら、そういえば。そうだったわね。えーと、もうすぐ来ると思うわ。呼んだもの」
「そうですか」
「そうですか、ですって。ふふふ、礼儀正しいわねえ」
先に座りましょうかと誘われて、ダイニングテーブルへ向かう。ソファを通り過ぎる時、間にあったローテーブルには、プレゼントが詰まれているのが見えた。
「あの」
「はあい」
「これ、跡部へのプレゼントです」
「あらあ、ありがとう。だけど、それは、あれね。今日の主役に渡してあげてくれるかしら」
このまま手元にあれば、食事に邪魔だ。私は黙って、先ほどのローテーブルまで戻る。一言声を掛けられたが、私がプレゼントを置くのを見て合点したのか、私が再び戻ってくるまで座りもせず待ってくれた。
テーブルに着くと、跡部の母親は、私に、跡部がどんな風に幼稚舎の事を話すかを語ってくれた。私が絵本を読み聞かせていた事、教室遊びで課題を跡部と同じぐらいの速さでやり終えている事。鈴から色々教えてもらった事(とあの説教を跡部はそう伝えたらしい)。人の口に戸は立てられないとはよく言ったもので、跡部は賢くて何でも言い表せるものだから、出来事という出来事を伝えていたのだ。聞いていて私は少し冷や汗をかく。しかし、彼女は私に物を尋ねる事も無く、語り続けていた。
ドアの開く音がして、そちらを向くと、跡部とむーちゃんが顔を出した。二人は走ってこちらへ来る。
「りん、来てたのかい」
「うん、ついさっき」
跡部は自分の母親の隣へ座り、むーちゃんは私の隣に座る。跡部は母親と顔を見合わせて笑う。
「お父さまはまだですか」
「お父様はね、九時ごろに帰ってくるって」
「それでは、僕は寝てしまいます」
「がんばって夜更かししましょう?その頃にはお爺様お婆様も来るわ」
「そうですか」
跡部はちっとも残念そうにはしないで、むしろ嬉しそうだった。
その後食事が運ばれてきて、この誕生日会が始まった。食事の間、跡部は主に母親と話してばかりだった。私達に目もくれないほど浮かれている、という事だろう。跡部の母親は、時々気を利かせ私とむーちゃんに話しかけてくれるが、跡部に申し訳なくて短い返事しかしなかった。食事は煮込んだり茹でたりしたものが中心で、私達の小さな歯でも問題なく、口当たりさっぱりした味付けだった。
「ごちそうさまでした、していいかしら」
「はい」
隣でむーちゃんも頷く。跡部の母親は人を呼ぶと、お皿を片付けさせた。入れ違いに、ケーキが運ばれる。
ケーキは通常のものより一回り小さいようで、もし大人四人で食べるには良い大きさだろう。真ん中にそれが置かれると、四本蝋燭を立て、何処かで誰かが明かりを絞り、部屋が薄暗くなる。使用人によって一本ずつ火が点され、火は揺らめいて小さく周りを照らした。
「ハッピバースデートゥーユー」
跡部に微笑みながら、彼女は歌い出したので、私達も一緒に歌い出す。私達に囲まれて、跡部はあどけない表情で、蝋燭を見つめている。歌が終わると、私達は言った。
「お誕生日おめでとう」
「ありがとうございます」
跡部は大きく息を吸い込むと、火を全て吹き消して、辺りを一度真っ暗にした。
天井の明かりが再びつけられ、私達は拍手する。跡部はどこか恥ずかしげに下を向いていた。人が来て、ケーキを切り分けて配る。スポンジとの間には果物が入っていて、果物嫌いの私には厄介だったが、悪いので我慢して食べる。
「チョコレートケーキはお嫌いだったかしら」
「いえ、チョコレートは大好きです」
びっくりして咄嗟に答えた。跡部の母親は思ったより、私を見ていてくれていたようで、味わいもせず早食いしてしまった後、おかわりを勧められる有様だった。
「そうだ、景吾さん、凛さんがプレゼントを持ってきてくれていたわよ」
そう言って、彼女は一人立ち上がり、ローテーブルの方まで歩いて行った。途中、私に目配せし、手招きされたので、応じて私も椅子から降りる。どうぞと私の持ってきた包みを渡され、背中を押されながら跡部の前まで歩く。
「誕生日プレゼント」
一言そう言って、椅子から降りていた跡部に手渡した。
「ありがとう。早速あけていいかい?」
「うん」
開けなくとも、紙の包みは透けていて、中身が見えている。跡部は包みを床に放り出し、そのテディベアを抱きしめた。
「よかったわねえ景吾さん。お母様にも見せてくれる?」
「はいお母さま」
彼女は手に取ると、耳についていたタグを見て言った。
「これ、シュタイフ社のテディベアなの?」
そう声を上げたのに、私は身を固くさせる。しかし、それはどうやら杞憂だった。
「わざわざ、へえ、景吾さんに。ありがたいわ。景吾さん、このテディベア、大事にしなさいね」
「はい」
跡部がむーちゃんにそれを見せびらかせている。その時、跡部の母親は、私に顔を綻ばせて言った。
「こちらこそ、これからも景吾さんと仲良くしてあげてね」
2009/01/15