堕落者19
ひよちゃんの文句と、私のわがままを合わせたら、午前は遊んで午後に勉強会という結果に落ち着いた。私達の遊びには、鬼ごっこやかくれんぼといった、幼稚舎の敷地内をいっぱい使っての遊びが増えた。動き回って体がわくわくするのは、この幼い体にエネルギーが満ち溢れているからだろうか。むーちゃんも楽しんでくれているようで尚嬉しい。ひよちゃんは私に会うといつも文句を言ってくるけれど、ちゃんと遊びに加わってくれているので、嫌々ではない、筈。
跡部は相変わらず、女の子達を引き連れて楽しくやっているようだ。マセガキと悪態付けられないところが、跡部景吾の由縁とでもいおうか。もし私が昔居た世界だったなら、そんな事は起こらなかっただろうけど、残念ながらここは夢小説の世界で、彼はこんな幼い頃から非現実に晒される運命にあった訳だ。本人は見事、その非現実さを実感する必要も無く、大勢の女の子相手に微笑んでさえいる。私は安心して毎日を送っていた。
「これで合ってますか」
午後のお勉強会。彼は私に紙を提出する。既に義務教育を経験してしまった私は、幼稚園児相手の先生役にすんなりと納まってしまっていた。ひよちゃんは何をどうしてそうなってしまったのか、とても勉強熱心な幼児だった。その熱心さのためか遊び相手が今までいなかったようだが、その代わり、大人に気兼ねなく話しかけられる子で、私が言い淀めば、すぐさま教諭の元へ駆けて行く。今しがた彼から手渡されたのは計算問題の答案で、今回、そうされる心配は無いようだ。
筆箱に常備するようになった赤ペンを取り出し、一つ一つ丸を付けていく。問題は単純も単純、一桁の数字同士の足し算で、毎週一回の教室遊びで延々とやらされている事と一緒だ。何せ、私の学年で二桁と一桁の足し算をするようになる。毎回毎回、ブロックを用意しての説明と先生の解答の書き写し。それらを頭使って解こうとするような子はひよちゃんぐらいだと、私は疑っていない。
解答も最後に差し掛かると、私はふと手を止めた。
「二桁二桁なんて、習ったの?」
「にけた?ですか」
「この、大きい数字ずつの足し算さ」
「いいえ。てきとうに数字をあてて、やって、みました」
答えは合っていたので、丁寧に丸を書いてやる。紙の空白には、四角をたくさん書いて消した形跡が残っていた。
「筆算教えるか」
「ひっさん?ですか」
「うん。大きい数字、計算しやすくなるよ」
僅かに彼は目を大きくして、目の膜に反射した光がきらめいた。
「じゃあそれ、お願い、します」
「ほいほい。むーちゃんにも教えるよー」
一の位と十の位の説明に始まり、五より多い数字同士の足し算、二桁と一桁の足し算と順を踏んで、繰り上がりに慣れさせて、それからやっと二桁同士の足し算に挑戦した。二人とも覚えるのが速くて、手間が掛からない。
「ね、簡単でしょ」
「……ありがとう、ございます」
彼はちゃんと礼を言える子供だった。頭を撫でようと手を伸ばしかけたが、前にやって怒られたのを思い出し、日吉の次に解き終えていたむーちゃんを撫でて褒めた。
「そういえば、ひよちゃんってそろばん習っていないの?」
「そろばん、ですか」
「こんなの」
簡単に絵で描いてみたが、彼は知らないと言った。
「これ習うとね、計算が早くなるんだよ」
「あなたはならってる、んですか」
「ううん」
「なら。ならい、ます」
私は、彼が中学生になるまでに、そろばんを習うだろう事を知っていたので、どう返事を返せばいいか分からなかった。
二人より三人は良い。私とむーちゃんだけだと、私だけが発言して、結果、私の好きな事ばかりしていた。私は、多人数がいけ好かないので、むーちゃんの友達は、私と跡部の他にいなかった。三人とは、多すぎず少なすぎず丁度良く、ひよちゃんは口が回る子なので私の意見ばかりが通るのを防ぎ、むーちゃんの友達は一人増えた。跡部は他へ行ってしまったけれど、ひよちゃんの勉強時間は削れたけれど、悪い事は少ない。二人きりから一人増え、毎日はもっと楽しい。
雨が滴る日、梅雨時期に入ると鈴は言っていた。巡りめぐって、そんな季節かとぼんやり思いながら、窓向こうの灰色を眺める。私というのはかくれんぼをしているのだが、教室の隅に体育座りをして体を縮めるぐらいにして、鬼であるむーちゃんが探しに来るのを待っている。むーちゃんはかくれんぼが大の得意で、不得意だ。私とひよちゃんが何処に隠れても、ものの見事に見つけ出し、そのくせ、自分はすぐ見つかるような所に隠れる。いつもそれでは悔しいので、あえてこんな投げやりな隠れ方をした。
「りん」
窓から目を移すと、そこには跡部が立っていた。
「どしたの?」
「君こそ」
「私はかくれんぼ」
「こんなところでかい」
跡部は軽く息を吐いた。知り合いが部屋の隅で膝を抱えている姿は、見て、誤解を招きかねない事ではある。しかし、私からすれば、跡部がここにいる事のほうがおかしい。彼の両脇も、背中の向こうも、誰もいない。
「跡部は何してるの」
「君をさがしていたんだ」
「他の子は」
思いの外、大きな声が出た。
「一人にしてくれと言ったら、してくれた」
跡部はそう言って、じっとこちらを見下ろした。
「それにしても、むーちゃんより先に見つけられちゃったな」
「かばじがオニなのかい」
「そう」
「じゃあ、もう一人は、君と同じようにどこかにかくれているのかい」
ひよちゃんの事を知っていたのかと、内心驚いたが、むーちゃんから聞いていたのかもしれないと思い直す。
「うん、そうじゃないかな?」
「楽しくやっているようだね」
そう言う彼の声は堅い。
跡部は物を話すとき、口端に笑窪を浮かべるのが常だった。そうで無かったのは、私の骨が完治するまでの期間だけだ。今の彼は決して、眉を寄せてさえいないが、口は一文字を結んで、彼にしては珍しい、無機質な表情だった。
「どうしたの」
跡部はただ物言いたげにこちらを見つめるばかり。彼は最初に、私を探していたと言っていた。
「話したい事でもあるの」
そう尋ねると、跡部は私の腕を掴んで引っ張った。私は立ち上がって、彼と目線を合わせる。
「今?」
彼は私の腕を離さないまま、教室を出た。
彼に連れられるまま、私は、いつ自分がむーちゃん達に見つかるかを心配していた。そして、今私を連れている彼が、いつも遊んでいた子達は何処に行ったのかを思い馳せた。ここがもし幼稚舎でなかったならを思うと、空恐ろしい。中等部へ行けば、きっと法則が待ち受けている。
彼が向かったのは、体育館だった。私達の他に沢山の子供達がいる。てっきりどこか二人きりになれる場所に行くのかと思っていたので、その賑やかさに私は目を瞬いた。彼は黙って私の手を引いていく。隅に押し並べられていた平均台まで行くと、彼はそこに腰を掛けた。仕方無しに私も隣に座る。
「楽しいかい?」
「え?」
「君は、このごろ、べつにあそぶようになって楽しいかい」
その質問は、答えるべき類ではなかった。天邪鬼に捉えれば、彼は答えを知りたくて言ったわけじゃないだろう。
僕は、このごろ、べつにあそぶようになって楽しくない。
驕れるなら、彼はそう言いたいに違いなかった。
跡部は相変わらず、女の子達を引き連れて楽しくやっているようだ。マセガキと悪態付けられないところが、跡部景吾の由縁とでもいおうか。もし私が昔居た世界だったなら、そんな事は起こらなかっただろうけど、残念ながらここは夢小説の世界で、彼はこんな幼い頃から非現実に晒される運命にあった訳だ。本人は見事、その非現実さを実感する必要も無く、大勢の女の子相手に微笑んでさえいる。私は安心して毎日を送っていた。
「これで合ってますか」
午後のお勉強会。彼は私に紙を提出する。既に義務教育を経験してしまった私は、幼稚園児相手の先生役にすんなりと納まってしまっていた。ひよちゃんは何をどうしてそうなってしまったのか、とても勉強熱心な幼児だった。その熱心さのためか遊び相手が今までいなかったようだが、その代わり、大人に気兼ねなく話しかけられる子で、私が言い淀めば、すぐさま教諭の元へ駆けて行く。今しがた彼から手渡されたのは計算問題の答案で、今回、そうされる心配は無いようだ。
筆箱に常備するようになった赤ペンを取り出し、一つ一つ丸を付けていく。問題は単純も単純、一桁の数字同士の足し算で、毎週一回の教室遊びで延々とやらされている事と一緒だ。何せ、私の学年で二桁と一桁の足し算をするようになる。毎回毎回、ブロックを用意しての説明と先生の解答の書き写し。それらを頭使って解こうとするような子はひよちゃんぐらいだと、私は疑っていない。
解答も最後に差し掛かると、私はふと手を止めた。
「二桁二桁なんて、習ったの?」
「にけた?ですか」
「この、大きい数字ずつの足し算さ」
「いいえ。てきとうに数字をあてて、やって、みました」
答えは合っていたので、丁寧に丸を書いてやる。紙の空白には、四角をたくさん書いて消した形跡が残っていた。
「筆算教えるか」
「ひっさん?ですか」
「うん。大きい数字、計算しやすくなるよ」
僅かに彼は目を大きくして、目の膜に反射した光がきらめいた。
「じゃあそれ、お願い、します」
「ほいほい。むーちゃんにも教えるよー」
一の位と十の位の説明に始まり、五より多い数字同士の足し算、二桁と一桁の足し算と順を踏んで、繰り上がりに慣れさせて、それからやっと二桁同士の足し算に挑戦した。二人とも覚えるのが速くて、手間が掛からない。
「ね、簡単でしょ」
「……ありがとう、ございます」
彼はちゃんと礼を言える子供だった。頭を撫でようと手を伸ばしかけたが、前にやって怒られたのを思い出し、日吉の次に解き終えていたむーちゃんを撫でて褒めた。
「そういえば、ひよちゃんってそろばん習っていないの?」
「そろばん、ですか」
「こんなの」
簡単に絵で描いてみたが、彼は知らないと言った。
「これ習うとね、計算が早くなるんだよ」
「あなたはならってる、んですか」
「ううん」
「なら。ならい、ます」
私は、彼が中学生になるまでに、そろばんを習うだろう事を知っていたので、どう返事を返せばいいか分からなかった。
二人より三人は良い。私とむーちゃんだけだと、私だけが発言して、結果、私の好きな事ばかりしていた。私は、多人数がいけ好かないので、むーちゃんの友達は、私と跡部の他にいなかった。三人とは、多すぎず少なすぎず丁度良く、ひよちゃんは口が回る子なので私の意見ばかりが通るのを防ぎ、むーちゃんの友達は一人増えた。跡部は他へ行ってしまったけれど、ひよちゃんの勉強時間は削れたけれど、悪い事は少ない。二人きりから一人増え、毎日はもっと楽しい。
雨が滴る日、梅雨時期に入ると鈴は言っていた。巡りめぐって、そんな季節かとぼんやり思いながら、窓向こうの灰色を眺める。私というのはかくれんぼをしているのだが、教室の隅に体育座りをして体を縮めるぐらいにして、鬼であるむーちゃんが探しに来るのを待っている。むーちゃんはかくれんぼが大の得意で、不得意だ。私とひよちゃんが何処に隠れても、ものの見事に見つけ出し、そのくせ、自分はすぐ見つかるような所に隠れる。いつもそれでは悔しいので、あえてこんな投げやりな隠れ方をした。
「りん」
窓から目を移すと、そこには跡部が立っていた。
「どしたの?」
「君こそ」
「私はかくれんぼ」
「こんなところでかい」
跡部は軽く息を吐いた。知り合いが部屋の隅で膝を抱えている姿は、見て、誤解を招きかねない事ではある。しかし、私からすれば、跡部がここにいる事のほうがおかしい。彼の両脇も、背中の向こうも、誰もいない。
「跡部は何してるの」
「君をさがしていたんだ」
「他の子は」
思いの外、大きな声が出た。
「一人にしてくれと言ったら、してくれた」
跡部はそう言って、じっとこちらを見下ろした。
「それにしても、むーちゃんより先に見つけられちゃったな」
「かばじがオニなのかい」
「そう」
「じゃあ、もう一人は、君と同じようにどこかにかくれているのかい」
ひよちゃんの事を知っていたのかと、内心驚いたが、むーちゃんから聞いていたのかもしれないと思い直す。
「うん、そうじゃないかな?」
「楽しくやっているようだね」
そう言う彼の声は堅い。
跡部は物を話すとき、口端に笑窪を浮かべるのが常だった。そうで無かったのは、私の骨が完治するまでの期間だけだ。今の彼は決して、眉を寄せてさえいないが、口は一文字を結んで、彼にしては珍しい、無機質な表情だった。
「どうしたの」
跡部はただ物言いたげにこちらを見つめるばかり。彼は最初に、私を探していたと言っていた。
「話したい事でもあるの」
そう尋ねると、跡部は私の腕を掴んで引っ張った。私は立ち上がって、彼と目線を合わせる。
「今?」
彼は私の腕を離さないまま、教室を出た。
彼に連れられるまま、私は、いつ自分がむーちゃん達に見つかるかを心配していた。そして、今私を連れている彼が、いつも遊んでいた子達は何処に行ったのかを思い馳せた。ここがもし幼稚舎でなかったならを思うと、空恐ろしい。中等部へ行けば、きっと法則が待ち受けている。
彼が向かったのは、体育館だった。私達の他に沢山の子供達がいる。てっきりどこか二人きりになれる場所に行くのかと思っていたので、その賑やかさに私は目を瞬いた。彼は黙って私の手を引いていく。隅に押し並べられていた平均台まで行くと、彼はそこに腰を掛けた。仕方無しに私も隣に座る。
「楽しいかい?」
「え?」
「君は、このごろ、べつにあそぶようになって楽しいかい」
その質問は、答えるべき類ではなかった。天邪鬼に捉えれば、彼は答えを知りたくて言ったわけじゃないだろう。
僕は、このごろ、べつにあそぶようになって楽しくない。
驕れるなら、彼はそう言いたいに違いなかった。