堕落者20
「こんなところにいた、んですか」
暇を持て余して、ぶらつかせた足を見ていると、頭の上から声がした。隠れているはずのひよちゃんが、目の前に立っている。
「あれ?」
「あれ、じゃない、です。遊ぶんならまじめに遊んで、ください」
傍らにはむーちゃんもいた。どうやら、最初にひよちゃんは見つかってしまい、二人は一緒に私を探してくれていたようだ。
「まさかこんなところにいるとは思、いませんでした。たいいくかんなんて、かくれるばしょないじゃない、ですか」
彼の言う通り、ここには物陰が無い。背の低い遊具が立ち並ぶだけで、身を隠そうとすれば、必ず体がはみ出てしまう。
「だけど、見つけにくかったでしょ?」
惚けて言うと、ひよちゃんは言った。
「ええ、ええ。一度来たとき、あなたを見つけられ、ませんでしたよ」
上手い具合に入れ違ったらしい。
きょうしつあそびの時間。跡部は笑窪を見せて言った。
「進歩はあったよ」
「へえ」
「と言っても、分かってくれてないみたいだけどね」
「うん?」
「だけど、言ったらすっきりした。彼女達は、一応、知ってはくれたんだ」
彼がそう語りかけるのは、一緒に喜んで欲しいという訴えだと分かっているけれど、私は彼の言葉にただ頷くだけだった。
クラス替えをしたあの日からずっと、私は高を括っていたのだ。跡部がどんなに本来の姿で振舞っていても、絶対に私の元へ戻ってくると、疑っていなかった。この世界が夢小説の世界であると気付いたのだから。
本来の跡部は、私なんかに目もくれない。そう断言できるのは、それこそが私の跡部へのイメージだからだ。私のイメージする跡部は、万物が彼を中心にして動き、そもそも万物は彼のツールでしかなく、そうあるべきだとさえ言え、彼の性質は自己中心的であるというよりも、即物的であり、活発に事を成そうとし、そればかりを考えているといった人物像だった。一言で言うのなら、彼はこの世界の成功者。それが、私の抱いていた、彼への揺ぎ無い人物像だった。
役立たずの私に声を掛けるなんて事は、彼がまだ子供だから出来たことで、何より、それがこの世界の秩序であり、現実に適った所業だった。
女の子達が尋ねて来た時、私が彼に、彼女達の用件を勧めたのは、これからの跡部のためだったが、心の内はそうではなかった。確かめたかったのだ、鈴に聞いてまで明白にさせた法則が、本当に存在するものなのか。
跡部が一人きりで私を連れ出したとき、私は、目に見えないその存在を感じて心を震わせていた。あんなに引き連れていた女の子達から身を遠ざけ、私を選んだのだと、大きく膨らむ期待が恐ろしくて、恐ろしくて冷や汗を掻いた。訪れると思われた歓喜に、全身が緊張していた。
現実にいない筈の彼は、空想の世界で私の理想に塗りたくられ、私の選りすぐった、価値ある人物に仕立て上げられていた筈なのだ。そんな人物が、そんな人物になるだろう彼が、私の身近にいて、私を必要としてくれる奇跡。現実ではありえない。しかし、私はその非現実に身を投じ、暮らしている。本来ありえない事が、ありえる出来事となる、そんな世界に私はいる。そんな風に、私は侮っていたのだ。
けれど、いつでもそうだったように、現実は私を諭してくれた。本当にそんな人物がいたのなら、私なんかに構うものか。そんな事は、あのジャングルジムから落ちてしまった時に、分かっていた事なのに。
こうして、確かめられたのは、私の常識や価値観が覆る事は無いという事実だけだった。
梅雨も明けないまま、二回目の七夕がやってくる。私は一人、短冊に願いを書き綴った。教諭へそれを手渡すと、彼女はそれを見てにっこり笑う。
「そうねえ、夜には、織姫様と彦星様が会えるといいわねえ」
そして、教室内に飾られた笹に、私の短冊を括りつける。彼女の手が離れた弾みに、短冊がひるがえる。
『まえのとしとおなじはれでありますように』
空に輝き続けている筈の、空想の二人に願うには良いだろうと、土砂降りの暗い窓を見て笑った。
不満なんて無いのだ。だって私には、むーちゃんとひよちゃんがいる。
体が小さくとも、彼らは全く幼児じゃない。言うなれば、無知な大人だった。話を素直に聞き取り、しっかりとした言葉遣いで考えを述べられる。自分で考え、自分で取り組もうとする。それらを楽しもうとしているところだけが、唯一子供らしかった。彼らはとても賢くて、あえて欠落しているところを上げるとすれば、損得の概念が曖昧であるところだろうか。しかし、彼らの年では、それがむしろ大人に称賛される。
本来の子供がどんな様なのかは未だ分からないが、そう考えてみたところで、この世界に本来というものがあるのかも分からない。
この頃では、教室遊びや給食の時間も、跡部と顔を合わせなくなった。むーちゃんとの会話で、彼個人の生活が変わりない事は知っている。関わる人間が変わっただけなのだ。
それは私にも言えた。私は若葉組に出かけて行くようになり、跡部は青葉組の中で、女の子達の誘いばかりを受けるようになった。幼稚舎のみの過ごし方が変化しただけで、それ以外は何も変わりない。
「ねーねー」
自由遊びの時間、いつもと同じように教室から出ようとドアへ向かうと、覚えの無い声を頭後ろに聞いた。振り向くと、ビビットな黄色とピンクが立っている。
「おまえ、おれたちとおにごっこしたか?」
二人の顔を眺めるだけ眺め、自分が、身を置いている教室との関わりを、いかに疎かにしていたのか思い知る。長らくの間、彼らが一緒の教室にいた事を忘れていた。思い出してみれば、彼らは二人、落ち着き無く、教室遊びの時間でさえ騒いでいたりしていた事もあったかもしれない。いやに元気だな、先生は大変そうだ、と思う事もあったかもしれない。しかしそんな、覚えていても仕方ない事など、私の頭の中から消えていく。
随分と沈黙が続いていたが、彼らは意外にも辛抱強く私の返事を待った。私は小さな二人を見据えて言った。
「おにごっこしたよ」
「え?そうだったか?」
ピンク頭をした子が首を傾げる。その胸元の名札には、「がくと」と記されている。
「うん、そう」
「なんだ、そうかあ」
「じゃーね!」
黄色頭をした子がそう合図すると、颯爽と私の横を通り過ぎ、教室を出て行った。その黄色頭の子の名札に「じろう」と記されているのを見逃さなかった。
自分の思い過ごしというよりも、私は、自意識過剰だったのではないか。この世界の事を、過大評価していたのではないか。これも思い過ごしかもしれないが、彼らとの出会いのきっかけは、私なら簡単に引き起こせると思っている。そうじゃないと、むーちゃんや跡部、ひよちゃんとの事が説明つかない。
そう、信じて疑わない。
「こらこらー」
「まてまてー」
昨日の今日、彼らはドアの前で私を引き止めると、鬼ごっこだ!と叫んだ。その後、私が考え無しに、通り抜けたのが悪かった。歩き進む私を、トテトテ彼らが付いてくる。早歩きする私を、パタパタ彼らが付いてくる。走り出す私を、ドタバタ彼らは追いかけて来た。そして、彼らの望むとおり、鬼ごっこが始まってしまったのだった。
暇を持て余して、ぶらつかせた足を見ていると、頭の上から声がした。隠れているはずのひよちゃんが、目の前に立っている。
「あれ?」
「あれ、じゃない、です。遊ぶんならまじめに遊んで、ください」
傍らにはむーちゃんもいた。どうやら、最初にひよちゃんは見つかってしまい、二人は一緒に私を探してくれていたようだ。
「まさかこんなところにいるとは思、いませんでした。たいいくかんなんて、かくれるばしょないじゃない、ですか」
彼の言う通り、ここには物陰が無い。背の低い遊具が立ち並ぶだけで、身を隠そうとすれば、必ず体がはみ出てしまう。
「だけど、見つけにくかったでしょ?」
惚けて言うと、ひよちゃんは言った。
「ええ、ええ。一度来たとき、あなたを見つけられ、ませんでしたよ」
上手い具合に入れ違ったらしい。
きょうしつあそびの時間。跡部は笑窪を見せて言った。
「進歩はあったよ」
「へえ」
「と言っても、分かってくれてないみたいだけどね」
「うん?」
「だけど、言ったらすっきりした。彼女達は、一応、知ってはくれたんだ」
彼がそう語りかけるのは、一緒に喜んで欲しいという訴えだと分かっているけれど、私は彼の言葉にただ頷くだけだった。
クラス替えをしたあの日からずっと、私は高を括っていたのだ。跡部がどんなに本来の姿で振舞っていても、絶対に私の元へ戻ってくると、疑っていなかった。この世界が夢小説の世界であると気付いたのだから。
本来の跡部は、私なんかに目もくれない。そう断言できるのは、それこそが私の跡部へのイメージだからだ。私のイメージする跡部は、万物が彼を中心にして動き、そもそも万物は彼のツールでしかなく、そうあるべきだとさえ言え、彼の性質は自己中心的であるというよりも、即物的であり、活発に事を成そうとし、そればかりを考えているといった人物像だった。一言で言うのなら、彼はこの世界の成功者。それが、私の抱いていた、彼への揺ぎ無い人物像だった。
役立たずの私に声を掛けるなんて事は、彼がまだ子供だから出来たことで、何より、それがこの世界の秩序であり、現実に適った所業だった。
女の子達が尋ねて来た時、私が彼に、彼女達の用件を勧めたのは、これからの跡部のためだったが、心の内はそうではなかった。確かめたかったのだ、鈴に聞いてまで明白にさせた法則が、本当に存在するものなのか。
跡部が一人きりで私を連れ出したとき、私は、目に見えないその存在を感じて心を震わせていた。あんなに引き連れていた女の子達から身を遠ざけ、私を選んだのだと、大きく膨らむ期待が恐ろしくて、恐ろしくて冷や汗を掻いた。訪れると思われた歓喜に、全身が緊張していた。
現実にいない筈の彼は、空想の世界で私の理想に塗りたくられ、私の選りすぐった、価値ある人物に仕立て上げられていた筈なのだ。そんな人物が、そんな人物になるだろう彼が、私の身近にいて、私を必要としてくれる奇跡。現実ではありえない。しかし、私はその非現実に身を投じ、暮らしている。本来ありえない事が、ありえる出来事となる、そんな世界に私はいる。そんな風に、私は侮っていたのだ。
けれど、いつでもそうだったように、現実は私を諭してくれた。本当にそんな人物がいたのなら、私なんかに構うものか。そんな事は、あのジャングルジムから落ちてしまった時に、分かっていた事なのに。
こうして、確かめられたのは、私の常識や価値観が覆る事は無いという事実だけだった。
梅雨も明けないまま、二回目の七夕がやってくる。私は一人、短冊に願いを書き綴った。教諭へそれを手渡すと、彼女はそれを見てにっこり笑う。
「そうねえ、夜には、織姫様と彦星様が会えるといいわねえ」
そして、教室内に飾られた笹に、私の短冊を括りつける。彼女の手が離れた弾みに、短冊がひるがえる。
『まえのとしとおなじはれでありますように』
空に輝き続けている筈の、空想の二人に願うには良いだろうと、土砂降りの暗い窓を見て笑った。
不満なんて無いのだ。だって私には、むーちゃんとひよちゃんがいる。
体が小さくとも、彼らは全く幼児じゃない。言うなれば、無知な大人だった。話を素直に聞き取り、しっかりとした言葉遣いで考えを述べられる。自分で考え、自分で取り組もうとする。それらを楽しもうとしているところだけが、唯一子供らしかった。彼らはとても賢くて、あえて欠落しているところを上げるとすれば、損得の概念が曖昧であるところだろうか。しかし、彼らの年では、それがむしろ大人に称賛される。
本来の子供がどんな様なのかは未だ分からないが、そう考えてみたところで、この世界に本来というものがあるのかも分からない。
この頃では、教室遊びや給食の時間も、跡部と顔を合わせなくなった。むーちゃんとの会話で、彼個人の生活が変わりない事は知っている。関わる人間が変わっただけなのだ。
それは私にも言えた。私は若葉組に出かけて行くようになり、跡部は青葉組の中で、女の子達の誘いばかりを受けるようになった。幼稚舎のみの過ごし方が変化しただけで、それ以外は何も変わりない。
「ねーねー」
自由遊びの時間、いつもと同じように教室から出ようとドアへ向かうと、覚えの無い声を頭後ろに聞いた。振り向くと、ビビットな黄色とピンクが立っている。
「おまえ、おれたちとおにごっこしたか?」
二人の顔を眺めるだけ眺め、自分が、身を置いている教室との関わりを、いかに疎かにしていたのか思い知る。長らくの間、彼らが一緒の教室にいた事を忘れていた。思い出してみれば、彼らは二人、落ち着き無く、教室遊びの時間でさえ騒いでいたりしていた事もあったかもしれない。いやに元気だな、先生は大変そうだ、と思う事もあったかもしれない。しかしそんな、覚えていても仕方ない事など、私の頭の中から消えていく。
随分と沈黙が続いていたが、彼らは意外にも辛抱強く私の返事を待った。私は小さな二人を見据えて言った。
「おにごっこしたよ」
「え?そうだったか?」
ピンク頭をした子が首を傾げる。その胸元の名札には、「がくと」と記されている。
「うん、そう」
「なんだ、そうかあ」
「じゃーね!」
黄色頭をした子がそう合図すると、颯爽と私の横を通り過ぎ、教室を出て行った。その黄色頭の子の名札に「じろう」と記されているのを見逃さなかった。
自分の思い過ごしというよりも、私は、自意識過剰だったのではないか。この世界の事を、過大評価していたのではないか。これも思い過ごしかもしれないが、彼らとの出会いのきっかけは、私なら簡単に引き起こせると思っている。そうじゃないと、むーちゃんや跡部、ひよちゃんとの事が説明つかない。
そう、信じて疑わない。
「こらこらー」
「まてまてー」
昨日の今日、彼らはドアの前で私を引き止めると、鬼ごっこだ!と叫んだ。その後、私が考え無しに、通り抜けたのが悪かった。歩き進む私を、トテトテ彼らが付いてくる。早歩きする私を、パタパタ彼らが付いてくる。走り出す私を、ドタバタ彼らは追いかけて来た。そして、彼らの望むとおり、鬼ごっこが始まってしまったのだった。