堕落者20
何故鬼が二人いるのか、なんて、追いかけられている身となっては、どうでもいい事だ。若葉組の前を過ぎるのは、かれこれ三回目。気付いてトイレに駆け込んだところで、彼らはドアの前で騒ぐだけ、観念して出てきても、誰も私にタッチせず、私が再び歩き出せば、彼らはその後ろを付いてくる。撒いてやろうと躍起になっても、彼らは負けじと追いかけるばかり。この騒がしい彼らを、連れて行くのは忍びなくて、むーちゃんとひよちゃんの元へは行けず、追いかけられて過ごす自由遊び。
教室遊びや給食の時間などは、彼らは彼らで楽しんでいたので、彼らの気は済んだものとホッとして、私は午前の失態を謝るためにも、午後の自由遊びの時間、若葉組に行きたかった訳だ。
「鬼ごっこだ!」
そして、午前の二の舞になる。追いかける癖して、追いつこうとしないのに、これは鬼ごっこじゃない。散々私を追い掛け回して、彼らは始終笑顔だった。無邪気な笑い声を上げて、何がそんなに楽しいのか。教諭達には、子供が三人仲良く遊んでいるようにしか見えない。少しは私の様子を注視してみて欲しい。目に若干の涙を浮かべ、追いかけられている私に、気付いて欲しい。
終わりない遊びは、帰りの会でお開きとなった。到底救われた気持ちにはならない。彼らは彼らで、たのしかったぜと私に声を掛けると、二人でどこかへ走り去った。
「どうした」
迎えに来た鈴からその言葉を聞いて、血の気が引いた。と思うと、血が逆流するような思いをして、どうすればいいか分からず、私は叫びそうになる。
開かれた口を、ぱっとふさがれ、はっとして、息を飲むと共に、声までも飲み込んでしまったので、誰も私に気付かない。
口元をふさぐ手のひらを見て、私は鈴に目配せした。鈴は手を放す。
「行くぞ」
そう言う彼に、私は両腕を上げて、催促した。彼は眉を顰める事も無く、私を抱き上げる。目線が高くなった事に、少しの満足感を得て、私は鈴に言った。
「鈴は、私の願い、何でも叶えてくれるよね」
「ああ」
「じゃあ、私を抱っこしたまま、歩いて家に帰って」
「御意」
口元を歪ませる事など、鈴はしない。彼は私を抱えたまま歩き出す。そんな事、しなくていいのに。こんな、願いでもなんでもない、理不尽な命令を、くだらないと一蹴すればいい。誰だってそうするべきなんだ。
けれど、一人で歩くのは嫌だから、いつも通り手を引いて、一緒に歩いて欲しい。そこまで思って、私は自分自身の甘えに吐き気がした。
というのに、どんなに悩んでいたって、私は今、鈴に抱きかかえられていて、家に着くまで、腕の中から降りる気はない。私の体は幼いけれど、抱いて運ばれるにしては、体は大きく成長しているというのに。
私はふと、土砂降りの窓に映った、自分の笑みを思い出す。あれは、長年慣れ親しんだ笑みだった。もしかして、見たのは、あの時で初めてだったのかもしれない。それでも、私はそれをよく知っていた。あの一度、どのように口端を吊り上げ、どのように目を細めていたのか、見ただけで、後ろ暗い懐かしさが込み上げた。私は今でさえ、それを再現する事が出来るだろう。
幾度無くあの笑みを浮かべてきた。だからやっぱり、私はだんまりを決め込んだ。鈴の腕の中からはいつもと違った景色が見られるし、腕に抱かれる事は、容易に安らぎをもたらしてくれる。あの笑みの浮かべ方を心得ていたって、それまでに至った心情はすぐ忘れ、手短な平穏に甘んじるのだった。
そして私は心の中で呟く。これでいい、このままでいいじゃないか。
2009/03/07