堕落者21
「こんどはいったいどうしたんだい」
そう、気兼ねなく顔を見せた跡部は変わりなく、まるで時間が逆戻りしたのかのように思えた。
「えーと、鉄棒から落ちて」
「注意が足りないんだぞ」
なあ、かばじ、と跡部が同意を求め、むーちゃんは頷く。そのやり取りを見るのは随分久しぶりだ。
「それにしても、ベッドから起きないのかい?」
「風邪引いてるんだ」と即答する。
「そうなのかい?」
「まあ、それはもう治りかけなんだけどね」
「いろいろたいへんだったんだな」
二人の哀む顔を見て、ばつが悪かった。
跡部は前日から連絡を入れてくれていた。おかげで、どう取り繕うべきかを考える余裕が出来、腕を吊るして見せなければならない事を思い出す事も出来て、今に至る。
「むーちゃん、ひよちゃんは私の腕、知ってるの?」
「…はい」
「そう。なら良かった。仲良く遊んでるんだよ」
むーちゃんはこくりと頷く。その頭を撫でようと、腕を伸ばそうとしてはいけない、誤って、殴ってしまうかもしれないから。
布団に置かれた自分の手を眺めていると、跡部は尋ねる。
「いつこれるんだい?」
「さあねぇ。結構休むかも」
「そうか、なら、明日もおみまいに来るぞ」
そう笑みを浮かべる跡部に、私は慌てた。
「いいよ、風邪移ったら悪いし」
「なおりかけなら、明日にはだいじょうぶじゃないかい」
「念のためだよ」
「なら、あさってはどうだい」
「うーん」
「だめなのかい」
「そういうわけじゃないけど、うーん、じゃあ、一週間後には絶対治ってるから、その時に来て」
「わかったんだぞ!」
彼らが帰った後、私はその日しばらくベッドに潜り込んでいた。
そして、鈴との特訓のおかげで、心もとないが、歩けるようになった頃、約束どおり、跡部たちは再びやってきた。
「だめじゃないか!」
そうして叫んだのは跡部だ。
跡部たちを出迎えて、歩く途中、バランスをとろうとして、なんと、折れているはずの腕を、私は、頭の上まで振り上げてしまったのだ。
「どうしたんだ、何してるんだい、大丈夫なのかい」
これ以上、妙な事をしでかさないようにと、私は石みたいに固まった。
鈴は、隣にしゃがみこむと、丁寧に私の腕を下ろして、跡部たちに言う。
「悪いが、凜の部屋に先に行っててくれ」
そう言い残して、私を抱えてその場から連れ出した。
鈴は、自分の部屋として当てられていた書斎へ、私を引き入れる。体を下ろされると、私は火の着いたように泣き出してしまったのだった。
最初、自分でも何で泣いたのか分からず、分からなくて、わんわん泣いた。鈴は私を再び抱え直すと、体をゆすって私をあやす。私はひたすら目を固く瞑って、しかし泣いた。甲高い声を腹の底から出した。それには鈴が口に手を添えて閉じた。私はうーうーとうなり続ける事となった。
疲れてくると、跡部とむーちゃんの顔が思い浮かんだ。そして、自分は馬鹿だった、馬鹿だったと、そればかり思った。
私は思いどおりにならない事に怒って、無理を叶えて、自分から不自由になっているのに、あの二人は私なんかを心配し、元気付けようと、見舞いにさえ来てくれた。なのに、私は惚けた振りをしてばかりだった。
涙で濡れた顔を、何かが這った。薄く目を開けると、鈴の顔が近くにある。何かは、彼の舌だった。私はしばらく泣いていた。
私が落ち着いてきたのを見ると、鈴は私を椅子に腰掛けさせる。
「凜は気分が優れないと言って、跡部景吾と樺地崇弘には帰ってもらうが、いいか」
私は頷いた。鈴は、薄く開かれたドアを押し開き、私は、その後ろ姿を見送った。
それから、腕にギブスがはまる事はない。
私は淡々と日常のサイクルをこなし、少しずつ自分だけでも出来る事が増えていった。すると、動きの軽さ、身体の柔らかさに驚く事となる。
私の足や腕などを触れば、発達した筋肉が直に感じ取れた。もしかして、どこかジャングルや草原を駆けて生きる少年少女達と、なんら変わりのない筋肉なのかもしれない。そうとでも考えなければ納得できない、肉の付き様だった。水に潜れば沈んでしまうかもしれないと、危惧してしまう程だ。
突然の筋肉の発達により、私の体には、多少の見た目の変化はあるけれど、どうやら、目に見えた変化は、そうそう見受けられない。しかしスポーツ選手を思い出してみれば、筋肉の立派さはさることながら、彼らの血管は、目に見えるほど浮き出ていた気がする。
「あなたの変化に対する抵抗感や、周囲の人間の疑念を解消するために、見た目を通常との差を少なくするよう努めた」
何もかも鈴の気遣いがあってこそだ。
夏を忘れかけた頃、幼稚舎が始まった。身軽に、鈴と登舎する。久しぶりの日の光が鬱陶しい。
何事もなく朝の会が終わり、ぼんやりと、若葉組の二人を思い浮かべて、のたのたと教室を出て行こうとすると、
「あー!」
あのビビット達が現れた。
「おまえ!どこいってたんだよ!」
私は無視を決め込んで通り過ぎる。しかし、彼らは。
「なぁ、おにごっこしようぜ!」
私は走り出した。
急に風が立つ。一度、試しに走ってはいた。目はまともに開いちゃいけない、意味も無く涙が出てくるから。体の動きを意識しちゃいけない。趣くまま、走ればいい。
風の音しか聞こえなくて、足を止めると、後ろに誰もいなかった。辺りを見渡せば、自分の教室の前だった。コトコトと刻まれる鼓動の音に、どうしようかと思案する。
「りん?」
振り返ると、そこには跡部。
「どうしたんだい」
周りには女の子達がいて、じっと私を観察している。私はひたすら、上がった息を整えようしていて、見かねて跡部は言った。
「ずっと前みたく、おいかけられてたのかい」
私は素直に頷く。
「いつも、逃げ切れなくて」
あの二人が騒がしくしていたからか、彼の記憶に残るほど、この不毛な鬼ごっこは目立っていたらしい。
呼吸も落ち着いて来て、一息吐く私に、跡部は不思議そうな顔をした。
「君は、いやだとかれらに言わなかったのかい」
2009/04/21