堕落者24
ひよちゃんは、私に、何か、言いたげな目を向ける時がある、というのは、今や恒例となっている事なのだけれど、、私はこの頃勘付いた。それは、むーちゃんに抱きつく時だ。
むーちゃんは、とっても可愛い子だ。背丈は私やひよちゃんよりも大きくて、跡部よりも大きくて、この幼稚舎の誰より大きいかもしれないけれど、私は、この幼稚舎で、むーちゃんほど可愛い子を見た事がない。だから、私はその思いを持て余すと、彼に抱きつく。そして決まり文句を述べる。
「良い子だねぇ、むーちゃん」
体が誰よりも大きな子だから、その手のひらも、私より大きい。その大きな手のひらで、例えば、折り紙を作る。私より太い指で、端と端をきっちり揃えて、ゆっくりと、折り目を付け、手で一つ一つ確かめるように紙と向き合い、そうして、彼の手のひらからいつの間にか、美しい鶴が顔を出す。仕上げに彼は、その鶴の腹を膨らませるのだけれど、薄っぺらい羽を傷つけないように摘み上げ、口元を付けないように注意しながら、ふうっと息を入れる。息を吹き込まれた鶴を手のひらに乗せて見て、微かに、口端を柔らかくするのだ。
むーちゃんは、ひよちゃんと違って、とても楽しそうに絵を描く。そう言うのはちょっと誤りで、むーちゃんは、そうした事が好きで、そして、ひよちゃんはそうした事に無関心だ。だって、ひよちゃんは、絵を描こうと言うと不貞腐れる。むーちゃんは誘うと、頷いてくれる。
いや、彼は、誘えば何だって頷いてくれるのだった。そして、それを楽しもうとしてくれる。私はその素直な彼が、とても大好きで、恐い。彼は何でも頷いてくれるから、まるで、鈴のようだ。こちらの事は全て受け入れるから、下手な事は出来無い、可愛いむーちゃんに、悪さは出来無いから。彼の隣にいるのはとっても楽な事だけど、私はいつでも慎重だ。気軽に手を伸ばして、その頭を撫でるけれど、髪に手を滑らせるぐらいにして、満足したら直ぐに手を放してあげる。彼は決して嫌がらないから、何か仕出かす時、こちらで止めなければいけない。
むーちゃんは、幼いけれど、人の扱いが上手い。彼は、生まれて一度も、人を不快にさせた事なんて、無いのではないだろうか。ひよちゃんは私に沢山の言葉を並べて向き合う事があっても、むーちゃんに対しては、そんなに激しい対応をした事がない。私がビビット二人組みと鬼ごっこに追われて不在の間、彼ら二人は淡々と遊びに取り組んでいたし、ひよちゃんはむーちゃんに対する時、落ち着いている。当たり前だろうとは思う。彼の傍はとても落ち着くのだから、誰だって。そう、跡部だって、彼の傍にいるのが心地よいから、放課後も彼を家に招き入れるのだ。だから、むーちゃんは人の扱いが上手いに違いない。そう言うと、まるで彼が計算高い意地悪であるかのようだけれど。
かくれんぼで彼は見つかりやすい場所に隠れるけれど、私とひよちゃんが、その事に怒った事はなかった。呆れはあったかもしれないけれど、その程度だ。だって、むーちゃんだもの。そう思うと、全てを許せる気持ちになる。彼は、千里眼を持っているんじゃないかと思うぐらい、私達を見つけてしまうけれど、それを、ずるしたなんて誰も思い付かない。むーちゃんだもの。
むーちゃんはとっても賢い。だから、私はいつも歯がゆい。彼は、言われた事は何でもこなす。どんな事を言われても、何でも出来る。跡部は言うまでもなく、ひよちゃんもそうだけど、むーちゃんも立派な神童だ。なのに、私は彼が大人に褒められているのを見た事がない。もっと褒めてあげて、もっと認めてあげて、誰も言わないのなら、
「むーちゃんは偉いね、良い子だね」
私は、彼が何かを成したり、子供ながらの心遣いが出来た時、必ずそう言った言葉をかける。そう言うときも、やっぱり、ひよちゃんは、何か言いたげな目を向ける。
可愛いね、というのが私の本心だけど、そんな言葉をむーちゃんに言った試しは無い。もし言いそうになっても、飲み込んで、別の褒め言葉を口にする。それを言ったら、私の行動の本性が姿を現しそうで、やめておく。
私がこうして彼を可愛がるのは、自制心が無いからだ。でなければ、むーちゃんを撫で回したり、抱きついたりしないだろう。じっと彼を見つめてしまう事は、なんて迷惑な事だろうか。けれど、むーちゃんはそれらを全て受け入れる。だから結局、私は悪事を働いているのかもしれない。
「でき、ました」
ひよちゃんはそうして、完成された答案を私に渡す。そして、私は大抵、花丸をつける。けれど、彼の頭は撫でない。
「すごいね、ひよちゃんは」
一言の本音を述べて、それだけに留める。彼はその幼さに似合わず、甘やかされるのが嫌いだ。目に見えた愛で方を、あからさまに嫌がる。そうしてくれると、私のなけなしの自制心も上手に機能してくれて、有り難い。その不快感を明確に私へ伝えてくれるならば、いくら私でも、それ以降同じことをしないのだ。そして、それが駄目ならば、抱きつくのも当然駄目だろうと、先を予測する事だって出来る。許しの無い事に、手を出す勇気はない。
そうして、相手から自らの行動を戒められるのは、楽な事だ。それはつまり、その行動さえしなければ、相手は幻滅しない。だから、実はひよちゃんといるほうが、楽な時がある。もし私が間違いを仕出かしても、ちゃんと意見してくれるだろうと、そういった信頼を、彼に寄せているのだ。むーちゃんはとても懐が深くて、その底が知れないから、時々恐く感じるのだろう。
私は、二人の幼さに甘えている。二人が無知な事を良い事に付け入って、私は彼らの傍にいる。彼らがいくら賢くて、神童と称えられるぐらいだったとしても、彼らは、世の中にはどんなに素晴らしい人間がいるのかを知らない。彼らは判断するための知識が足りていないのだ。だから、私を正しく理解出来ずに、一緒にいてくれる。理解の本質を知らない彼らの目は、全てを平等に見渡しているのだろう。
その点、跡部はやっぱり天才だった。私とむーちゃんとの関係には限界があったけれど、彼はその外側を知りえる機会を無駄にする事はなかった。彼の天才振りには舌を巻く。私が鈴によって、自らを幼児化させ、この時代を巻き戻した事は、妙策だった。何年か先の未来に、彼らとは途方も無い隔たりがある事を思えば、今の彼らとの関係は何より素晴らしいもので、この幼稚舎で過ごした内の不満は、些細な事で、それはきっと、星空を眺める時の気持ちに似ている、沢山の、手の届かない何かと比べれば、こんなのはちっぽけじゃないか、そして、こうして自分が存在している事だけが何より幸運なことではないか、と。
幼稚舎最後の七夕で、私は、「忘れないで」と紙に綴った。
むーちゃんは、とっても可愛い子だ。背丈は私やひよちゃんよりも大きくて、跡部よりも大きくて、この幼稚舎の誰より大きいかもしれないけれど、私は、この幼稚舎で、むーちゃんほど可愛い子を見た事がない。だから、私はその思いを持て余すと、彼に抱きつく。そして決まり文句を述べる。
「良い子だねぇ、むーちゃん」
体が誰よりも大きな子だから、その手のひらも、私より大きい。その大きな手のひらで、例えば、折り紙を作る。私より太い指で、端と端をきっちり揃えて、ゆっくりと、折り目を付け、手で一つ一つ確かめるように紙と向き合い、そうして、彼の手のひらからいつの間にか、美しい鶴が顔を出す。仕上げに彼は、その鶴の腹を膨らませるのだけれど、薄っぺらい羽を傷つけないように摘み上げ、口元を付けないように注意しながら、ふうっと息を入れる。息を吹き込まれた鶴を手のひらに乗せて見て、微かに、口端を柔らかくするのだ。
むーちゃんは、ひよちゃんと違って、とても楽しそうに絵を描く。そう言うのはちょっと誤りで、むーちゃんは、そうした事が好きで、そして、ひよちゃんはそうした事に無関心だ。だって、ひよちゃんは、絵を描こうと言うと不貞腐れる。むーちゃんは誘うと、頷いてくれる。
いや、彼は、誘えば何だって頷いてくれるのだった。そして、それを楽しもうとしてくれる。私はその素直な彼が、とても大好きで、恐い。彼は何でも頷いてくれるから、まるで、鈴のようだ。こちらの事は全て受け入れるから、下手な事は出来無い、可愛いむーちゃんに、悪さは出来無いから。彼の隣にいるのはとっても楽な事だけど、私はいつでも慎重だ。気軽に手を伸ばして、その頭を撫でるけれど、髪に手を滑らせるぐらいにして、満足したら直ぐに手を放してあげる。彼は決して嫌がらないから、何か仕出かす時、こちらで止めなければいけない。
むーちゃんは、幼いけれど、人の扱いが上手い。彼は、生まれて一度も、人を不快にさせた事なんて、無いのではないだろうか。ひよちゃんは私に沢山の言葉を並べて向き合う事があっても、むーちゃんに対しては、そんなに激しい対応をした事がない。私がビビット二人組みと鬼ごっこに追われて不在の間、彼ら二人は淡々と遊びに取り組んでいたし、ひよちゃんはむーちゃんに対する時、落ち着いている。当たり前だろうとは思う。彼の傍はとても落ち着くのだから、誰だって。そう、跡部だって、彼の傍にいるのが心地よいから、放課後も彼を家に招き入れるのだ。だから、むーちゃんは人の扱いが上手いに違いない。そう言うと、まるで彼が計算高い意地悪であるかのようだけれど。
かくれんぼで彼は見つかりやすい場所に隠れるけれど、私とひよちゃんが、その事に怒った事はなかった。呆れはあったかもしれないけれど、その程度だ。だって、むーちゃんだもの。そう思うと、全てを許せる気持ちになる。彼は、千里眼を持っているんじゃないかと思うぐらい、私達を見つけてしまうけれど、それを、ずるしたなんて誰も思い付かない。むーちゃんだもの。
むーちゃんはとっても賢い。だから、私はいつも歯がゆい。彼は、言われた事は何でもこなす。どんな事を言われても、何でも出来る。跡部は言うまでもなく、ひよちゃんもそうだけど、むーちゃんも立派な神童だ。なのに、私は彼が大人に褒められているのを見た事がない。もっと褒めてあげて、もっと認めてあげて、誰も言わないのなら、
「むーちゃんは偉いね、良い子だね」
私は、彼が何かを成したり、子供ながらの心遣いが出来た時、必ずそう言った言葉をかける。そう言うときも、やっぱり、ひよちゃんは、何か言いたげな目を向ける。
可愛いね、というのが私の本心だけど、そんな言葉をむーちゃんに言った試しは無い。もし言いそうになっても、飲み込んで、別の褒め言葉を口にする。それを言ったら、私の行動の本性が姿を現しそうで、やめておく。
私がこうして彼を可愛がるのは、自制心が無いからだ。でなければ、むーちゃんを撫で回したり、抱きついたりしないだろう。じっと彼を見つめてしまう事は、なんて迷惑な事だろうか。けれど、むーちゃんはそれらを全て受け入れる。だから結局、私は悪事を働いているのかもしれない。
「でき、ました」
ひよちゃんはそうして、完成された答案を私に渡す。そして、私は大抵、花丸をつける。けれど、彼の頭は撫でない。
「すごいね、ひよちゃんは」
一言の本音を述べて、それだけに留める。彼はその幼さに似合わず、甘やかされるのが嫌いだ。目に見えた愛で方を、あからさまに嫌がる。そうしてくれると、私のなけなしの自制心も上手に機能してくれて、有り難い。その不快感を明確に私へ伝えてくれるならば、いくら私でも、それ以降同じことをしないのだ。そして、それが駄目ならば、抱きつくのも当然駄目だろうと、先を予測する事だって出来る。許しの無い事に、手を出す勇気はない。
そうして、相手から自らの行動を戒められるのは、楽な事だ。それはつまり、その行動さえしなければ、相手は幻滅しない。だから、実はひよちゃんといるほうが、楽な時がある。もし私が間違いを仕出かしても、ちゃんと意見してくれるだろうと、そういった信頼を、彼に寄せているのだ。むーちゃんはとても懐が深くて、その底が知れないから、時々恐く感じるのだろう。
私は、二人の幼さに甘えている。二人が無知な事を良い事に付け入って、私は彼らの傍にいる。彼らがいくら賢くて、神童と称えられるぐらいだったとしても、彼らは、世の中にはどんなに素晴らしい人間がいるのかを知らない。彼らは判断するための知識が足りていないのだ。だから、私を正しく理解出来ずに、一緒にいてくれる。理解の本質を知らない彼らの目は、全てを平等に見渡しているのだろう。
その点、跡部はやっぱり天才だった。私とむーちゃんとの関係には限界があったけれど、彼はその外側を知りえる機会を無駄にする事はなかった。彼の天才振りには舌を巻く。私が鈴によって、自らを幼児化させ、この時代を巻き戻した事は、妙策だった。何年か先の未来に、彼らとは途方も無い隔たりがある事を思えば、今の彼らとの関係は何より素晴らしいもので、この幼稚舎で過ごした内の不満は、些細な事で、それはきっと、星空を眺める時の気持ちに似ている、沢山の、手の届かない何かと比べれば、こんなのはちっぽけじゃないか、そして、こうして自分が存在している事だけが何より幸運なことではないか、と。
幼稚舎最後の七夕で、私は、「忘れないで」と紙に綴った。