堕落者25
鈴にスーツケースを出してもらった。そのスーツケースは、私の背丈に見合った大きさで、一泊するため丁度の収納力を持っている。私はそれに、一日分の着替えと、歯ブラシ等の日用品、パジャマ代わりの浴衣を入れようとして、やっぱり止めて、鈴に本物のパジャマを出してもらった。浴衣と言うのはこちらに来てからの私の部屋着だけれど、鈴無しに着付けはでき無いのだ。
跡部のお誕生日会は、去年と変わらず、しいて言えば人数が増えていて、料理もそれに比例している。私はやっぱりむーちゃんと二人きりで、彼は皆と楽しげに笑っていた。
「りん、こっちだぞ」
きらびやかな窓枠の向こうはとっぷりと日が暮れているのに、私は、跡部とむーちゃんの三人で、赤く柔らかな絨毯を靴裏に受けながら、長い廊下を歩いている。私の荷物や、結局持って来ていた彼へのプレゼント(前回と同じで、クッキーの詰め合わせ)は、とうにこの家の使用人に渡してしまっていた。
初めて入る跡部の部屋は、久しい感じがした。ずっと前、最初のお誕生会に呼ばれた時に入った部屋と同じ壁紙で、似た刺繍の絨毯が敷かれている。広さも同じぐらいじゃないだろうか。その部屋に、純白のキングサイズのベッドと、植物のモチーフの模様を繊細に掘り込まれた、純白の家具達が、お澄まし顔で構えている。床には物一つ落ちていないで、取り上げて言うなら、この部屋の隅に、私の持ってきた荷物が鎮座していた。
「今日はここで三人寝るんだ!」
泊まりに来いというからには、それはちっとも不思議じゃないが、この洋風にまとめられた家で、一つのベッドに寝るのが一人じゃないなんて、別に、あちらの習慣を大事にしているわけじゃないらしい。
お風呂の準備が出来たと言って、年配のメイドさんが顔を出す。すると、跡部は一緒に入ると騒ぎ出す。あちらの習慣なんてどうでも良かったんだなあと改めて思い直して、荷物からパジャマをメイドさんの手で出してもらい、三人並んで再び廊下に出る。
お風呂は、大浴場だった。跡部の話によると、いつもはこのお風呂で入らないらしい。ここはこの家の使用人がよく利用するとのことだ。入り口にはご丁寧に「men」や「women」と書かれていたが、どういう事か、私達は「women」の方に連れていかれた。幼児相手に恥ずかしがる事もなく、裸になって、メイドさんに入れてもらう。と言っても、私は自分から断りを入れ、自分で体や髪を洗って、メイドさんは殆ど跡部達に付きっ切りだった。浴場は私の想像を見事に反映したもので、お湯がライオンの口から注がれ、観葉植物が植えられて、浴槽は、四角い白のタイルが有機的なカーブを描いて敷き詰められ、湯を湛えている。
「百まで数えるんだぞ」
メイドさんに見守られ、跡部の提案の元、皆で大人しく数を数える。普段お風呂で歌ったり口笛を吹いたりとしていた私だが、人と声を合わせお風呂で騒ぐのは新鮮だ。途中、言いだしっぺは私の顔にお湯を掛け、お湯掛け大会をけしかけた。むーちゃんも応戦して、三人の笑い声を響かせながら、しかし、数を数えるのを忘れない。
皆びしょ濡れのまま浴場を出ると、他のメイドさんが、大きなタオルを広げて待っていた。それに包まれて、やわやわとうごめくそれらに、私は目を瞑る。頬や体にさらりとしたタオルの感触に晒されて、ふと明るくなって目を開けると、肌がしっとりとしているところに、髪から滴り落ちて水滴が出来る。そこに、熱風を被った。
タオルで力強くかき回されながら、ドライヤーで乾かしてもらう。まるで、ペットにでもなっている気分だ。されるがままになって、それだけで水気が引いていく。なんだか懐かしい感覚、そういえば、この頃は、タオルもドライヤーも必要なくて、鈴だ。
「そういえば、お母さんは?」
「お父様と出かけているんだ」
跡部の部屋で、私達はソファに座って、しかしむーちゃんは眠くなって、先にベッドで寝てしまっていた。跡部と私も寝るべきだけど、跡部は夜更かしすると言いだしたのだ。
「今日……」
「去年もね、お母様は忙しそうだったんだ」
「おばあちゃんとおじいちゃんは」
「旅行なんだぞ。イギリスだって言ってた」
去年から変わったのは、私達との関係だけと思ってたのに。
そこから、ぽつりと会話が途切れる。一緒にいると、跡部は、いつも沢山のお話を聞かせてくれていたので、不思議に思って跡部を見ると、俯いていて、隣にいるというのに、どんな顔をしているのか分からなかった。
それから彼が口に出したのは、私の案じていた事と全く違うことだった。
「僕ね、ずっと君に聞いてもらいたい話があったんだ」
その口調は、覚えがある。前に、相談された時のような、ひどく落ち着いた物言い。
「僕、前に、春ぐらいに、さらわれただろう」
もう、半年ぐらい前の話。
「うん」
「僕、それからなんだか、わからないんだ」
「わからないって?」
「正しいと、まちがいってなんだろう」
跡部は言った。人を攫ってまで、いったい何がしたかったのか。お金を得て、どうするのか。お金が欲しいなら働けば良い。人攫いに失敗すれば警察に捕まる。しかし犯人は、自分を攫うことでお金を得ようとした。何でそんな考えが持てるのか。そして跡部は自分が恐いと言った。彼らは人間なのに、考えれば考えるほど、人間じゃない何かのように思えて、そんな残酷な自分が恐いと言った。
「人間じゃない何かって、何」
「けだもの、と、さいしょにうかんだのは、そんな言葉だったかな」
獣。
「そう、それは変ね」
そう言うと、跡部はさらに顔を俯かせる。
「だって、人間だって、けだものじゃない」
跡部はそっとこちらを伺った。
「跡部は残酷じゃない。人間は獣よ。跡部は賢いから、それに気付いちゃっただけ」
「ちがう」
「何が?」
「人は、僕は、けだものじゃない」
「けだものだよ」
跡部は顔を上げた。疑うような眼差しを、私に向ける。
「私も獣」
そう言うと、跡部の表情が少し緩んだ。
「疑うんなら、辞書引いてみなさい」
跡部はとぼとぼと本棚に向かい、広辞苑を取り出して、重そうにこちらへ運んできて、座って膝に置き、捲る。
「ぜんしんにけがあり、よんそくのどうぶつって……」
「そりゃ、他の動物と比べれば薄いかもだけど、人間だって全身に毛があるし、立つのに使っているのは二足だけど、手は他の動物と比べれば器用かもしれないけど、四足だよ」
「ちがう」
「だって、赤ちゃんの頃なんか、立てないじゃない。四つん這いじゃない。跡部からすれば、赤ちゃんは獣になるけど」
「ちがう!そんな事思ってないんだぞ。それに、ほら、人をののしっていうことばだってかいてあるんだぞ」
「それは、勝手に人が、動物が醜いものだと思っているから」
「思ってない!」
「なら、どうして、人を動物だっていうのが悪口になるの?」
そう言うと、跡部は黙った。
「ね、人って獣でしょ?だから、跡部はべつに酷い事を考えたわけじゃないんだよ」
「……そんなことあるもんか」
「あるよ。だって、本当にひどい人は、自分に分からない人を、人間じゃないって、平気で思うもの」
跡部は必死に言葉を考えている様子だ。きっと納得できていないのだ。
「跡部って、良い子だね」
跡部のお誕生日会は、去年と変わらず、しいて言えば人数が増えていて、料理もそれに比例している。私はやっぱりむーちゃんと二人きりで、彼は皆と楽しげに笑っていた。
「りん、こっちだぞ」
きらびやかな窓枠の向こうはとっぷりと日が暮れているのに、私は、跡部とむーちゃんの三人で、赤く柔らかな絨毯を靴裏に受けながら、長い廊下を歩いている。私の荷物や、結局持って来ていた彼へのプレゼント(前回と同じで、クッキーの詰め合わせ)は、とうにこの家の使用人に渡してしまっていた。
初めて入る跡部の部屋は、久しい感じがした。ずっと前、最初のお誕生会に呼ばれた時に入った部屋と同じ壁紙で、似た刺繍の絨毯が敷かれている。広さも同じぐらいじゃないだろうか。その部屋に、純白のキングサイズのベッドと、植物のモチーフの模様を繊細に掘り込まれた、純白の家具達が、お澄まし顔で構えている。床には物一つ落ちていないで、取り上げて言うなら、この部屋の隅に、私の持ってきた荷物が鎮座していた。
「今日はここで三人寝るんだ!」
泊まりに来いというからには、それはちっとも不思議じゃないが、この洋風にまとめられた家で、一つのベッドに寝るのが一人じゃないなんて、別に、あちらの習慣を大事にしているわけじゃないらしい。
お風呂の準備が出来たと言って、年配のメイドさんが顔を出す。すると、跡部は一緒に入ると騒ぎ出す。あちらの習慣なんてどうでも良かったんだなあと改めて思い直して、荷物からパジャマをメイドさんの手で出してもらい、三人並んで再び廊下に出る。
お風呂は、大浴場だった。跡部の話によると、いつもはこのお風呂で入らないらしい。ここはこの家の使用人がよく利用するとのことだ。入り口にはご丁寧に「men」や「women」と書かれていたが、どういう事か、私達は「women」の方に連れていかれた。幼児相手に恥ずかしがる事もなく、裸になって、メイドさんに入れてもらう。と言っても、私は自分から断りを入れ、自分で体や髪を洗って、メイドさんは殆ど跡部達に付きっ切りだった。浴場は私の想像を見事に反映したもので、お湯がライオンの口から注がれ、観葉植物が植えられて、浴槽は、四角い白のタイルが有機的なカーブを描いて敷き詰められ、湯を湛えている。
「百まで数えるんだぞ」
メイドさんに見守られ、跡部の提案の元、皆で大人しく数を数える。普段お風呂で歌ったり口笛を吹いたりとしていた私だが、人と声を合わせお風呂で騒ぐのは新鮮だ。途中、言いだしっぺは私の顔にお湯を掛け、お湯掛け大会をけしかけた。むーちゃんも応戦して、三人の笑い声を響かせながら、しかし、数を数えるのを忘れない。
皆びしょ濡れのまま浴場を出ると、他のメイドさんが、大きなタオルを広げて待っていた。それに包まれて、やわやわとうごめくそれらに、私は目を瞑る。頬や体にさらりとしたタオルの感触に晒されて、ふと明るくなって目を開けると、肌がしっとりとしているところに、髪から滴り落ちて水滴が出来る。そこに、熱風を被った。
タオルで力強くかき回されながら、ドライヤーで乾かしてもらう。まるで、ペットにでもなっている気分だ。されるがままになって、それだけで水気が引いていく。なんだか懐かしい感覚、そういえば、この頃は、タオルもドライヤーも必要なくて、鈴だ。
「そういえば、お母さんは?」
「お父様と出かけているんだ」
跡部の部屋で、私達はソファに座って、しかしむーちゃんは眠くなって、先にベッドで寝てしまっていた。跡部と私も寝るべきだけど、跡部は夜更かしすると言いだしたのだ。
「今日……」
「去年もね、お母様は忙しそうだったんだ」
「おばあちゃんとおじいちゃんは」
「旅行なんだぞ。イギリスだって言ってた」
去年から変わったのは、私達との関係だけと思ってたのに。
そこから、ぽつりと会話が途切れる。一緒にいると、跡部は、いつも沢山のお話を聞かせてくれていたので、不思議に思って跡部を見ると、俯いていて、隣にいるというのに、どんな顔をしているのか分からなかった。
それから彼が口に出したのは、私の案じていた事と全く違うことだった。
「僕ね、ずっと君に聞いてもらいたい話があったんだ」
その口調は、覚えがある。前に、相談された時のような、ひどく落ち着いた物言い。
「僕、前に、春ぐらいに、さらわれただろう」
もう、半年ぐらい前の話。
「うん」
「僕、それからなんだか、わからないんだ」
「わからないって?」
「正しいと、まちがいってなんだろう」
跡部は言った。人を攫ってまで、いったい何がしたかったのか。お金を得て、どうするのか。お金が欲しいなら働けば良い。人攫いに失敗すれば警察に捕まる。しかし犯人は、自分を攫うことでお金を得ようとした。何でそんな考えが持てるのか。そして跡部は自分が恐いと言った。彼らは人間なのに、考えれば考えるほど、人間じゃない何かのように思えて、そんな残酷な自分が恐いと言った。
「人間じゃない何かって、何」
「けだもの、と、さいしょにうかんだのは、そんな言葉だったかな」
獣。
「そう、それは変ね」
そう言うと、跡部はさらに顔を俯かせる。
「だって、人間だって、けだものじゃない」
跡部はそっとこちらを伺った。
「跡部は残酷じゃない。人間は獣よ。跡部は賢いから、それに気付いちゃっただけ」
「ちがう」
「何が?」
「人は、僕は、けだものじゃない」
「けだものだよ」
跡部は顔を上げた。疑うような眼差しを、私に向ける。
「私も獣」
そう言うと、跡部の表情が少し緩んだ。
「疑うんなら、辞書引いてみなさい」
跡部はとぼとぼと本棚に向かい、広辞苑を取り出して、重そうにこちらへ運んできて、座って膝に置き、捲る。
「ぜんしんにけがあり、よんそくのどうぶつって……」
「そりゃ、他の動物と比べれば薄いかもだけど、人間だって全身に毛があるし、立つのに使っているのは二足だけど、手は他の動物と比べれば器用かもしれないけど、四足だよ」
「ちがう」
「だって、赤ちゃんの頃なんか、立てないじゃない。四つん這いじゃない。跡部からすれば、赤ちゃんは獣になるけど」
「ちがう!そんな事思ってないんだぞ。それに、ほら、人をののしっていうことばだってかいてあるんだぞ」
「それは、勝手に人が、動物が醜いものだと思っているから」
「思ってない!」
「なら、どうして、人を動物だっていうのが悪口になるの?」
そう言うと、跡部は黙った。
「ね、人って獣でしょ?だから、跡部はべつに酷い事を考えたわけじゃないんだよ」
「……そんなことあるもんか」
「あるよ。だって、本当にひどい人は、自分に分からない人を、人間じゃないって、平気で思うもの」
跡部は必死に言葉を考えている様子だ。きっと納得できていないのだ。
「跡部って、良い子だね」