堕落者28
「君、皆同じじゃないって言ってたじゃないか」
「そうだよ。だから、似てるだけなんだって。ちなみに、アザラシは魚と似て、体を横にくねらせて泳ぐし」
「形がちがうじゃないか」
「うん。同じじゃないよね」
そうして跡部をあしらった後、ひよちゃんには魚の簡単な特徴を改めて確認させ、お勉強会はお開きになった。
その時、跡部が私達と遊んだのは気まぐれではなかったらしく、それ以来彼は、時々こちらへも顔を出すようになっていた。最初のうち、ひよちゃんは戸惑っている様子で、私がふざけて頭を撫でても、文句の言葉一つ言い出せなかったぐらいだった。私とむーちゃんといえば、幼稚舎で一緒に遊ぶのが一年ぶりとはいえ、よく知った相手に何を思うこともない。跡部はただ私達の遊びに加わるだけで、違う遊びをしようと無理に言い出す事もしなかったので、私達の遊びのサイクルは、彼がいてもいなくても差し支えなく、穏やかに機能し続けている。
それからある一時期、私の家の電話が頻繁に鳴るようになった。その電話と言うのは跡部からで、決して彼の使用人などではない。そういえば跡部からの電話というのは、以前は週に一度あるかないかの程度だったのだが、その頃の内容と言うのは、誰か使用人の声で、跡部を私の家へ遊びにいかせてもいいかという、鈴相手の話だった。今でも、跡部からかかってきたところで、鈴相手というのは変わりはしないのだが、その内容は、跡部の家で私と遊びたいというものに変わり果てている。そうして電話で何回も受け答えているうちに、いつしか私は、幼稚舎の放課後に必ず跡部の家へ寄る事ようになっていた。
跡部とむーちゃんと一緒に車へ乗り込むのが習慣になった頃、私は、鈴に聞いていた彼の家の事情を確信してしまっている。彼はやっぱり、あの大きな家で、身の回りの世話をしてもらいながらも、一人暮らしをしていた。彼の親がいつも家にいないのが珍しくも無いというのは、出会った頃からだったが、かれこれ三ヶ月あまり、彼の家で、使用人以外の人を見たためしは無い。しかし彼は、それでも毎日楽しそうに微笑んでいる。
「君、かばじばかりにずるいぞ、僕ともハグするんだぞ」
彼がそうした類の非難を言い出したのはいつからだっただろう。前のごっこ遊びで、そうした触れ合いもあるにはあったし、幼い私達には慣れ親しまれた行為だとは思うけれど、彼を抱きしめている間、私の心境は複雑だ。
そして、ふと、鈴を思い出す。そして、彼が私を抱きしめている時を思った。彼はこうした時、どうした思いで私を見つめているのだろう。
「喜びと悲しみだ」
「して、その心は」
「あなたを慰める喜びと、悲しむあなたを眺める心情」
自分で問いかけておきながら、疑問が降って湧く。
「鈴って感情があったんだね」
それは、人へ尋ねるにはあまりに失礼だけれど、彼を名付けた時の彼の奇行や、私が怪我をした時の彼の表情を覚えている上の事ではある。
「ああ。喜怒哀楽と識別している。人間と違って欲望が欠落しているため、私の感情とあなたの感情には、そうした差異はみられる」
鈴のその返答を聞いて、私の心境を複雑にさせる要因は、跡部に言い聞かせたものの一つなのかもしれないと思い立った。私は所詮生き物で、跡部に言わせれば獣で、私がもし鈴のように明解な精神構造をしていたなら、私のこの感情も、鈴と同じだと言えたのだ。鈴は化け物で、全知全能に近しい存在であり、私の抱え持つこれは、鈴に無くても支障は無い。平たく言えば、鈴はそれを持たなくとも生きていけるのだ。私のこれは、元々私を生かすために存在し、それこそが私を生き物、又は獣たらしめているのだけれど、今の私にはそれが何よりも煩わしいのだった。
跡部の家に通うようになってからというもの、次第に、彼の家に泊まることも多くなっていた。そういうとき、むーちゃんも必ずいるけれど、彼はいつも私達より一足先に眠りに着いている。
「僕、イギリスにひっこすことになったんだ」
三人ベッドに入り、寝付いたむーちゃんを眺めていると、とうとう跡部はそう言った。
「イギリスっていうのは、遠くにある国でね。日本の西に、大きなたいりくがあるだろう?ユーラシアたいりくと言うのだけど、その、向こうのはしには島があって、そこにある国なんだ、イギリスは。僕、氷帝のしょとうぶじゃなくて、そっちの小学校にかようことになる」
「そうなの」
「君は、ずっと氷帝にいるかい?」
「え?」
「お母様が言うには、小学校を卒業したら、またこっちに戻るんだそうだ。だから、君が氷帝にいてくれれば、また会えるんだぞ」
「また会えるか」
「ああ」
「氷帝で待ってたら、会えるんだ」
「そうだぞ」
私がはっきりとした返事をしないでいると、跡部はいつのまにかしゃべらなくなった。体を起こして隣向こうを見ると、彼も寝入ってしまっていた。
跡部は元来酷く均衡のとれた顔立ちをしているので、笑みの消えうせた彼の寝顔を見ていると、精巧に作られた人形でも眺めているような気持ちになり、時々空恐ろしい思いをする。けれど、彼は、私の中ではいつだって、とても愛らしい人物だった。その愛らしさは、彼の幼さが演出して見せた錯覚などでは決してなくて、彼を構成する諸々が、そう私に感受させる。だって彼は、顔を合わせれば笑みを浮かべ、話しかければ弾んだ声を返し、彼自ら私の手を取って、一緒にいてくれたのだ。充実した毎日を送る彼の日常の片隅に、私がいるのだと思えるのが、私の何よりの得意だった。こうして私が彼の家に訪れるようになれたのが、たとえこの世界のおかげだとしても。
卒舎式は、入学式ほど仰々しくなかった。それぞれの過ごしてきた教室で、細やかなお別れの言葉と共に、私達の三年間は終わってしまった。鈴を横に控えて、何かすべき事を忘れているような心地のまま、これから二度と足を踏み入れる事のないだろうこの教室を見納めしていた。
「りん!」
跡部は私に走りよると、鈴に挨拶ついでに、「少しむすめさんをおあずかりします」と言い残して、私の手を引いて教室を後にした。彼のボキャブラリーの豊富さに感心しつつ、為すがまま付いていく。
辿り着いた場所は絵本コーナーだった。この式の日、この幼稚舎には、卒舎する私達しかいなくて、こんな日に、人っ子一人いなかった。どこかからか談笑する声が廊下を響かせて私の耳に届く。置かれていた椅子に彼が座り、私にも勧めるので、私も腰を下ろす事にする。
私を見つめて彼は言った。
「けっこんしよう、りん」
見つめ返していると、彼は言葉を続ける。
「けっこんしたら、ずっといっしょにいられるんだ。僕とりんにはちがう家があって、ちがうおやがいて、僕はイギリスの学校に、君は日本の学校にかようことになるけど、家族なら、いっしょだ。お父様やお母様、お爺様やお婆様は、よくべつべつに出かけてしまうけれど、家は同じだから、いっしょなんだ。だから、りん、けっこんしよう」
彼の青い瞳が不安げに揺れている。しっとりとしたその色を見ていると、するりと口先から言葉が出ていた。
「わかった」
それを聞くと、跡部は花開くように笑って、
「そうだよ。だから、似てるだけなんだって。ちなみに、アザラシは魚と似て、体を横にくねらせて泳ぐし」
「形がちがうじゃないか」
「うん。同じじゃないよね」
そうして跡部をあしらった後、ひよちゃんには魚の簡単な特徴を改めて確認させ、お勉強会はお開きになった。
その時、跡部が私達と遊んだのは気まぐれではなかったらしく、それ以来彼は、時々こちらへも顔を出すようになっていた。最初のうち、ひよちゃんは戸惑っている様子で、私がふざけて頭を撫でても、文句の言葉一つ言い出せなかったぐらいだった。私とむーちゃんといえば、幼稚舎で一緒に遊ぶのが一年ぶりとはいえ、よく知った相手に何を思うこともない。跡部はただ私達の遊びに加わるだけで、違う遊びをしようと無理に言い出す事もしなかったので、私達の遊びのサイクルは、彼がいてもいなくても差し支えなく、穏やかに機能し続けている。
それからある一時期、私の家の電話が頻繁に鳴るようになった。その電話と言うのは跡部からで、決して彼の使用人などではない。そういえば跡部からの電話というのは、以前は週に一度あるかないかの程度だったのだが、その頃の内容と言うのは、誰か使用人の声で、跡部を私の家へ遊びにいかせてもいいかという、鈴相手の話だった。今でも、跡部からかかってきたところで、鈴相手というのは変わりはしないのだが、その内容は、跡部の家で私と遊びたいというものに変わり果てている。そうして電話で何回も受け答えているうちに、いつしか私は、幼稚舎の放課後に必ず跡部の家へ寄る事ようになっていた。
跡部とむーちゃんと一緒に車へ乗り込むのが習慣になった頃、私は、鈴に聞いていた彼の家の事情を確信してしまっている。彼はやっぱり、あの大きな家で、身の回りの世話をしてもらいながらも、一人暮らしをしていた。彼の親がいつも家にいないのが珍しくも無いというのは、出会った頃からだったが、かれこれ三ヶ月あまり、彼の家で、使用人以外の人を見たためしは無い。しかし彼は、それでも毎日楽しそうに微笑んでいる。
「君、かばじばかりにずるいぞ、僕ともハグするんだぞ」
彼がそうした類の非難を言い出したのはいつからだっただろう。前のごっこ遊びで、そうした触れ合いもあるにはあったし、幼い私達には慣れ親しまれた行為だとは思うけれど、彼を抱きしめている間、私の心境は複雑だ。
そして、ふと、鈴を思い出す。そして、彼が私を抱きしめている時を思った。彼はこうした時、どうした思いで私を見つめているのだろう。
「喜びと悲しみだ」
「して、その心は」
「あなたを慰める喜びと、悲しむあなたを眺める心情」
自分で問いかけておきながら、疑問が降って湧く。
「鈴って感情があったんだね」
それは、人へ尋ねるにはあまりに失礼だけれど、彼を名付けた時の彼の奇行や、私が怪我をした時の彼の表情を覚えている上の事ではある。
「ああ。喜怒哀楽と識別している。人間と違って欲望が欠落しているため、私の感情とあなたの感情には、そうした差異はみられる」
鈴のその返答を聞いて、私の心境を複雑にさせる要因は、跡部に言い聞かせたものの一つなのかもしれないと思い立った。私は所詮生き物で、跡部に言わせれば獣で、私がもし鈴のように明解な精神構造をしていたなら、私のこの感情も、鈴と同じだと言えたのだ。鈴は化け物で、全知全能に近しい存在であり、私の抱え持つこれは、鈴に無くても支障は無い。平たく言えば、鈴はそれを持たなくとも生きていけるのだ。私のこれは、元々私を生かすために存在し、それこそが私を生き物、又は獣たらしめているのだけれど、今の私にはそれが何よりも煩わしいのだった。
跡部の家に通うようになってからというもの、次第に、彼の家に泊まることも多くなっていた。そういうとき、むーちゃんも必ずいるけれど、彼はいつも私達より一足先に眠りに着いている。
「僕、イギリスにひっこすことになったんだ」
三人ベッドに入り、寝付いたむーちゃんを眺めていると、とうとう跡部はそう言った。
「イギリスっていうのは、遠くにある国でね。日本の西に、大きなたいりくがあるだろう?ユーラシアたいりくと言うのだけど、その、向こうのはしには島があって、そこにある国なんだ、イギリスは。僕、氷帝のしょとうぶじゃなくて、そっちの小学校にかようことになる」
「そうなの」
「君は、ずっと氷帝にいるかい?」
「え?」
「お母様が言うには、小学校を卒業したら、またこっちに戻るんだそうだ。だから、君が氷帝にいてくれれば、また会えるんだぞ」
「また会えるか」
「ああ」
「氷帝で待ってたら、会えるんだ」
「そうだぞ」
私がはっきりとした返事をしないでいると、跡部はいつのまにかしゃべらなくなった。体を起こして隣向こうを見ると、彼も寝入ってしまっていた。
跡部は元来酷く均衡のとれた顔立ちをしているので、笑みの消えうせた彼の寝顔を見ていると、精巧に作られた人形でも眺めているような気持ちになり、時々空恐ろしい思いをする。けれど、彼は、私の中ではいつだって、とても愛らしい人物だった。その愛らしさは、彼の幼さが演出して見せた錯覚などでは決してなくて、彼を構成する諸々が、そう私に感受させる。だって彼は、顔を合わせれば笑みを浮かべ、話しかければ弾んだ声を返し、彼自ら私の手を取って、一緒にいてくれたのだ。充実した毎日を送る彼の日常の片隅に、私がいるのだと思えるのが、私の何よりの得意だった。こうして私が彼の家に訪れるようになれたのが、たとえこの世界のおかげだとしても。
卒舎式は、入学式ほど仰々しくなかった。それぞれの過ごしてきた教室で、細やかなお別れの言葉と共に、私達の三年間は終わってしまった。鈴を横に控えて、何かすべき事を忘れているような心地のまま、これから二度と足を踏み入れる事のないだろうこの教室を見納めしていた。
「りん!」
跡部は私に走りよると、鈴に挨拶ついでに、「少しむすめさんをおあずかりします」と言い残して、私の手を引いて教室を後にした。彼のボキャブラリーの豊富さに感心しつつ、為すがまま付いていく。
辿り着いた場所は絵本コーナーだった。この式の日、この幼稚舎には、卒舎する私達しかいなくて、こんな日に、人っ子一人いなかった。どこかからか談笑する声が廊下を響かせて私の耳に届く。置かれていた椅子に彼が座り、私にも勧めるので、私も腰を下ろす事にする。
私を見つめて彼は言った。
「けっこんしよう、りん」
見つめ返していると、彼は言葉を続ける。
「けっこんしたら、ずっといっしょにいられるんだ。僕とりんにはちがう家があって、ちがうおやがいて、僕はイギリスの学校に、君は日本の学校にかようことになるけど、家族なら、いっしょだ。お父様やお母様、お爺様やお婆様は、よくべつべつに出かけてしまうけれど、家は同じだから、いっしょなんだ。だから、りん、けっこんしよう」
彼の青い瞳が不安げに揺れている。しっとりとしたその色を見ていると、するりと口先から言葉が出ていた。
「わかった」
それを聞くと、跡部は花開くように笑って、