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ポロン

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 ゆっくりと鍵盤を指で押す。ぽろん、とひとつ音がなる。おもちゃ箱よりも大きなその箱は、幼い自分には魔法の箱のように見えた。

 音、ピアノの音が聞こえる。イギリスは、次第に聞こえてくるその音に耳を傾けた。この曲は、そうだ『ラ・カンパネラ』だ。指がつりそうなほど激しいこの曲を、誰が引いているのか。考える必要もなかった。ここは広大な土地に、ひっそりと人目を忍んでたっている家。その家の持ち主はイギリスが知る限り、ひとりしか知らない。
「邪魔しちゃ、悪いか」
 ドアノブに手をかけるのをやめ、イギリスはしばしそのピアノの音に浸ることにした。


 ああ、いっこうに気分が落ち着きを取り戻さない。家の主、アメリカは目の前の鍵盤に指を滑らせながら、思考を巡らす。きっかけはとても些細なこと。だけど、気になってしまったが最後。
 こんな時、自分はまだ未熟だと思う。たったひとつの出来事を、それもほかの奴らなら気にも留めなかったであろうことを。こんなに引きずって、果てには考えがまとまらずにこうしてピアノに向かって苛立ちをぶつけているなんて。ヒーローが聞いてあきれる。ラ・カンパネラを引き終えて、アメリカは大きくため息をついた。ひと呼吸置いて再びピアノへ指をすべらす。これは、幻想即興曲だ。イギリスはドアに体を預けてそのメロディに再び耳を傾ける。こんなに早く、そして正確に。いつのまにこんな上達していたんだろう。うっとりと聞き入っていると、また曲がかわっていく。
「悲愴、か」
 ベートーベンの悲愴ソナタ第三楽章、悲しくも劇しさの見える一曲。アメリカをこんなにも追い立てるのは、いったい何なのだろう。こんなにも悲しそうに、そして激しく。突き動かしているものは何なのだろう。
「これは」
 悲愴が弾き終わった後、一瞬の静寂を激しく切り裂くピアノの音。脳裏に浮かぶ、あの雨の日。この曲が生まれたのは、彼の祖国が占領されたという知らせをきいたショパンが悲憤をこめて作曲したと言われている。時代も国も違えど、この胸を引き裂くような感覚。
「革命の、エチュード」
 忘れもしない。すべては、あの日終わって。そして、あの日はじまった。どんな想いで今、アメリカはこの曲を弾くのだろう。哀しみか、歓喜か。いずれの想いも、イギリスの知る由もないのだろう。
 突然、エチュードがやんだ。ドアに寄りかかっていたイギリスは首を傾げてドアの方へ向きかえる.何があったのだろう、なかに入るべきだろうか。悩んでいるうちに、続きが始まる訳でもなく、次の曲が奏でられ始めた。今までとは明らかに違う、やさしい曲調はまるでアメリカの心が徐々に穏やかになっているあらわれだとイギリスは思う。
「懐かしい、子犬のワルツか」
 イギリスがアメリカに初めて披露した曲。教養ということで何か楽器を教えようと思った。グランドピアノを注文したが、まだ幼いアメリカには大きすぎて指が届かなかった。拗ねたアメリカは背を向けてイギリスの言葉を聞こうとはしなかった。さすがにお手上げと、イギリスは諦めてピアノを弾いてアメリカの機嫌が直るのを待つことにした。
 驚いたことに、ピアノを弾き始めてしばらく。アメリカが目を輝かせてイギリスのもとへ歩いてきたのだ。
『イギリス、これ凄いんだぞ!歌うのかい?』
『あぁ、お前次第で色んな歌を歌ってくれるぞ』
 すごいすごいと、アメリカは大騒ぎだった。グランドピアノはもう少し大きくなってから。今はこれで我慢だと、子供用のおもちゃのピアノを注文した。
「あれ、そういえばどこにいったんだろうな」
 アメリカ用の小さなピアノ。鍵盤を叩く幼く短い指。奏でられる音は、どんな子守唄よりも優しく。どんなマーチよりも軽快に楽しそうで。アメリカの家からは、いつもピアノの音が聞こえていた。
「もう、とっくにやめたと思ってたのに」
 アメリカがイギリスの元を離れてから、長い月日がたった。ピアノに限らず、楽器というものは少しでも練習を怠れば腕はおちるものだ。だが、今のこの音色をきいても腕がおちているどころか、イギリスの知る限り以前と同じ。否、それ以上と評価してもいいくらいだった。
「うまく、なったなぁ」

 少しずつ落ち着いてきたぞ。アメリカはうんうん、と頷きながら鍵盤を叩いていく。ピアノをただ、無心でひたすらに弾いていくのはいつからかアメリカの癖になっていた。それも、特に落ち着かないとき。苛ついているときにこの癖は姿を見せる。ピアノを弾いていると、心が少しずつ穏やかになっていった。
 以前まで埃をかぶっていたピアノに再び目を向けたのは、いつからだったろうか。きっかけはなんてことなような気がする。
 目に入った。そう、それは本当に偶然だったのかもしれない。腕はきっとなまってる、きっと彼が聞いたらヘタクソだと笑うのだろう。触れた鍵盤は、重く感じられた。調律師を呼んで調律してもらうと、いいピアノですねとほめられて苦笑いを浮かべて有り難うと答えた。
「スタンウェイのピアノをこんな埃まみれにしちゃ可哀想ですよ。これからはもっと弾いてあげてくださいね」
「あぁ、大切にするよ」

 スタンウェイという、名前すらそのときのアメリカには意味が分からなかった。後で調べてみれば、世界でも指折りのメーカーであること。もちろん、それだけ値の張る物であること。
 あぁ、本当にこういうところにお金かけるんだったらもっとやることがあったんじゃないのかい?今更、あの頃の彼に文句をつけてみる。
 さぁ、調律もしてもらってあとは弾くだけ。けれど、いざ鍵盤に指をのせてみると思うように指は動かず。その時の流れ、月日を感じさせられた。
 人差し指で、鍵盤をひとつ押してみる。ポロン、と小さくピアノはその音を奏でた。この音が重なって、メロディになる。そう、小さい頃は不思議で仕方がなかった。
 こんな、おもちゃ箱みたいな大きな箱から。沢山の音と、様々なメロディが流れてきて。それを自在に操るイギリスをがそのときの自分には魔法使いのように見えた。イギリスのまねをしてみても、イギリスの様には弾きこなすことは出来ない。どうして、なんでとイギリスに尋ねて困り顔をさせてしまったこともあった。
 少しずつ弾けるようになってくると、子供というものは誰かに聞かせたくてたまらなくなるもので。新しい曲を覚えるたびにイギリスに聞かせていた。よくやったな、えらいぞ。その言葉、その笑顔。ほめられることが嬉しくて夢中で鍵盤を叩いていた時期もあった。
 そして、アメリカは再び鍵盤をたたく。楽譜と睨めっこし、音楽記号に頭を悩ませつつも。体というものは頭よりも記憶力がいいらしい。少しメロディをつかめば、指は鍵盤を滑るように動いた。
 幼い頃に戻ったように、新しい曲を次々と覚えていくのが楽しくて沢山の曲を聴き。楽譜を手に入れて弾いてみた。日本からアニメのピアノスコアも持ってきてもらう約束もしている。そのとき、日本に『弾きこなせるようになったら、ぜひ聞かせてくださいね』と笑顔でいわれ。気づく。
 自分は、誰のために弾いているのだろうと。誰かのためではない、自分のため。いや、それは違う。きっと、この指が奏でる物はすべて。

「イギリスぅ、今日飲みにいこうぜぇ」
作品名:ポロン 作家名:新羅あおい