02:ふたえの春
「――ごめん。起こして」
私の視界。白い小皿の上でいちごがころころ揺れる。ゆれる。視線を上げると、彼がいた。色のない瞳がのぞき込んでいる。無色はきっと、やさしい。そこでようやく、ここが彼の家だと思い出した。彼が、紅茶といちごを運んでくれる少しのあいだに、意識を飛ばしていたのだと気付いた。急いで髪の毛を手櫛でとかして、ソファに掛け直す。
「……もしかしなくても、私寝てました、よね」
「うん、とは言っても数分ぐらいだと思うけど」
「……すいません」
「……なんで?」
「だって、」
折角、こうして会えたのに。そんな子どもみたいな言い分を口に出せずにいると、彼は向かいのソファへ向かうと、テーブルの上のポットからカップに紅茶を注いでくれた。ふっくらした形のポットから、透明なオレンジ色が流れ出る。気のせいか、いちごの香りが強くなった気がした。慣れた手つきは、最近彼が主演していた映画を思い出させた。そういえば、最近あまり共演してない。それでも、こうして話す機会は前よりずっと増えた。そう、私がすべてを受け入れることを知ったあの日から。
「ルリさんが昨日まで長期の撮影で忙しかったのは知ってるし、それに、今日は天気がいいからうたた寝しても仕方ない」
まるで猫みたいな言い分。確かに、今日みたいな陽光は日なたぼっこにちょうどよいのだろう。日当たりのいいソファに座っていると、そんなことを思う。ぽかぽかして、頭がふわふわしてくる。このままじゃまた寝てしまいそう。目を擦ると、僅かに濡れていた。
「でも、かすかに意識はあったんですよ、声は聞こえた気がするし、」
そして私の言い分は子どもみたい。もう二十歳も超えたくせに。でも、そう、確かに聞こえたのだ。夢の中で、自分を呼んでくれる声を。照れ隠しに紅茶を口にすると、いちごの香りが喉や鼻をくすぐった。ああ、そうか、このお茶、ストロベリーティーなんだ。
「……幽平さん?」
「――名前、呼ばれたのかと思って、」
「え……?」
真っ直ぐな視線。カップを持っていた手が、ゆっくりと彼自身の胸に当てられる。まるで、ドラマの一シーンみたいなのに、彼がやると違和感がない。そう思って、気付く。これは多分、彼の演じた記憶にある動作なのだろう。こうやって、彼は自分を作っていく。私にとって演じることは纏うことなのに、彼はすべてを受け入れるのだ。そんな彼だから、私は――――。
「幽は、俺の本名」
「……かすか、さん?」
うん。首を縦に揺らす姿はどうにも、子どもみたいだった。どういう字か問えば、幽平の幽、とのこと。そんなものぐさな芸名の付け方が、この人らしいなあと思う。あ、喜んでる。そう気づけたのは、最近ちょっとずつ無表情な彼の感情の読み方がわかってきたからだ。それは、本当に些細な違いだ。それこそ、砂浜に落ちた宝石のように。表情が変わるというわけでもないし、声に感情がこもるわけでもない。けれど、なんとなく、わかるのだ。彼の周りの空気が、ほんのすこしだけ、揺れるから。そんな変化を見つけるのが、そして気づけるのが、嬉しいと思う。それから、名前を教えてもらえたことが。
「あの……ありがとうございます」
「俺は何もしてないよ」
それはひょっとしたら彼にとっては些細なことで、私の自己満足なのかもしれない。それでも、表に出ないだけで、彼の感情表現はきっと素直だ。私なんかよりずっと。
素直じゃない私は、つい視線を逸らして、彼が出してくれたいちごに目をやる。真っ白な皿の上で真っ赤な姿を見せる大降りのいちご。横に添えられていたフォークで一つを捕まえる。本当は一口で食べれるんだけど、と思いながら、かじりついた。そんなイメージだって、昔誰かに言われたから。甘酸っぱい。フォークを透明な赤い汁が伝う。
「……おいしい」
「はい、すごく」
「じゃあよかった」
そう呟いて、彼もまた同じようにフォークでいちごを捕まえると、一口で口の中に入れてしまった。それでもかなり大きないちごだったから、口の中でもぐもぐさせる様子が微笑ましい。だから、私も、と二つ目のいちごは、彼が視線を落とした瞬間に口の中にほうった。頬が膨らんでいるから、片手で口許を押さえて、いちごに歯を立てる。やっぱり、おいしかった。小さな春を口の中にひとつ。つい頬がほころんだ途端に目が合った彼は、そんな私に笑いもしなければ、呆れもしなかったけれど、ほんの少しだけ目を細めて、呟いた。
「俺はそのほうがルリさんらしい気がする」
紅潮した頬が恥ずかしかっただけなんかじゃないってこと、彼は知っていたの。