ゆびさきのゆくさき
03:20
目が覚めると静かだった。否、雨はまだぱらぱらと降っている。あれだけ幅を利かせていた雷は過ぎ去ってしまったらしい。
ラルクは寝惚け眼を擦る。が、瞼は重いままでなかなか上手く開かない。いつの間に眠っていたのやら、目だけ動かして辺りを確認する。どうやら宿の自分の部屋ではあるらしい。
うつらうつらとした意識がゆっくりまとまっていく。今何時なのだろう。とにかく朝ではない事だけは確かだ。なんだか妙に首筋がくすぐったい。未だ重い上体を起こしてベッド上に座ると、肌着の裾が引っかかっている。何度か瞬いて夜目がきくのを待っていると次第にそれは引っかかっているのではなくて掴まれているのだということ、そしてその正体がニコルであることを知る。くすぐったかったのは彼の無造作に跳ねた髪だったようだ。その事実を何度か反芻して、今更ながらに心臓が跳ねた。まさか寄り添って寝ていたのか。当の本人はラルクのベッドを占領し、それだけでは飽き足らず掛け布団も奪って好き放題に包まって体を丸めている。いい気なものだと小突きたい反動を抑えて、とりあえず腕をめいっぱい伸ばして掛け布団をもう片方のベッドから調達した。
大体どうしてこんな狭いベッドにふたりで寝ているのだろうと頭を捻る。確かニコルが部屋に押しかけてきて、その後暫くは本来サージュが使うはずだったベッドに潜り込んで雷鳴に合わせてぎゃあとかひいとか叫んでいた気がする。最初のうちは大丈夫か、とか声をかけていたことは覚えていたのだが、どうやらその後ラルクはその雨音と雷鳴と悲鳴をBGMに寝てしまったらしかった。
と、なると。おそらくだが、ニコルは耐え切れずラルクのベッドに潜り込んできたのだろうということになる。多分、あまりにも怖くて眠れなかったとかで。
ラルクは大きく息を吸い込んで、そのまま谷底にでも落ちていくような本日一番の大きな溜息を吐いた。思わず頭を抱える。まさかこの男がここまでとは思わなかった。とはいえすうすうと穏やかな寝息を立てて安心して眠っている男(というよりもはやここまでくるとこどもに相違ない)をたたき起こしてベッドから引きずり降ろすほどラルクは意地が悪く無いつもりだ。ラルクは雷の怖さなど露ほども知らないし知りたいとも思わないが、何よりニコルが怖がって頼ってきている事自体には正直悪い気はしない。ただそれを情けないとは思うけれども、裾をぎゅっと握っている手を見ればそれだけ雷が怖かったということなのだろう。軽視してさっさと寝てしまった自分を悪かったかとちょっとだけ反省する。
しかし、ちらりと覗かせる寝顔を見てまるで大きな猫でも飼っているようだ、とラルクは思った。あるいは小型の犬あたりか。
相変わらず穏やかな寝顔は普段の憎たらしさの片鱗も見せない。むしろかわいらしくさえある。寝ているだけならこんなにも大人しいものなのか。思っていたよりずっと白い肌につい触れたくなって、手が伸びる。しかし起こしてしまうかもしれないと思いとどまって、あとゆびさき一つのところで衝動を抑えた。指が行き場を失って静止する。そのまま何秒か止まったままのゆびさきは、今度はその透き通った緋色の髪へ向かった。
ニコルの跳ねた髪を指先で弄る。起きない。今度はくしゃりと頭を撫でるようにかきまわす。起きない。日頃の恨みから鼻でも摘んでやろうかと一瞬思ったが、紅い睫毛がふるりと震えたのを見て止めた。
それでも手触りのよさに止められなくて、くしゃくしゃの頭を梳いた。ラルクの指が短い髪の間を滑る。指間をくすぐる毛の一本一本が心地よい。しばらくそんなことをしているとふいにニコルが身じろぐ。小さく丸まった体を更に丸めながら、先程より少しだけ強くラルクの裾を握った。握られた分だけラルクの心が揺らぐ。
ふらふらとしているように見えて意外と地に足がついていたり、自分が一番大事そうに見えて他人を心配してきたり。そんなニコルをラルクはずっと見ていたつもりだった。けれどこんなに不安そうなニコルをラルクは知らなかった。なんだかんだといって他人と距離をとる事が苦手なニコルは、いつも一歩引いてラルクを見ていた気がする。いつだって自らラルクに近寄ることはあまりなかった。
ラルクはそうしてようやく気づく。ニコルが頼ってくるということは、ラルクだけに見せる甘えであり弱みであるのだと。あれだけ警戒心の強い回避率No.1の男が早々他人に媚びることはあっても甘えることはない。ましてや弱みなど見せるはずもないのだと。
握られた袖はいつだって振りほどいてしまってもよかったのだが、どうにもできなかった。どうにもしなかった。まるで離れないでくれと懇願されているようで、愛おしいとすら思ってしまった。それを離してしまえば遠くへいってしまう気もして。結局ラルクは甘い人間なのだ。良くも悪くも。
ラルクは仕方ないと穏やかに微笑して、もう一度ニコルの横に寝転ぶ。そしてそのまま再び目を閉じた。
外ではもう、雨が止んでいた。