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もう、来たくなかった。
安いアパートの一室の前で、不二は震える手でピンポンを押した。インターフォン越しに返事が来ると思っていたら、ガチャリ、とドアが開いた。

「やぁ、待っていたよ。寒いだろうから、玄関に入って。あ、ドアは閉めてね」
「早く、鍵を返して」

玄関先へ招き入れた幸村に、不二は手を差し出して言い放った。
白石と駅で別れた後、ちょうど幸村からメールが飛んできた。

 -鍵を忘れてるみたいだから、タイミングのいいときに取りに来てほしい-

今のさっきで会うつもりなど一切なかったのに、鍵がなければ家に入れない。仕方なく、家に帰る前に来たのだった。
ばたばたとおくから幸村が再び姿を現した、

「テーブルの下に転がってたよ」

すっと、不二の手のひらに落とそうとしてすぐにやめたのか、幸村は不二の鍵を引っ込めた。
不二はむっとして、いまだ震える手を伸ばす。

「早く返してよ」
「……今日のことは悪かった。もう二度としない」

昨夜とは打って変わった真摯な謝罪に、不二は思わず言葉に詰まる。

「そんな、謝っられたって……」
「うん、わかってる。でも、やっぱり不二のことが好きなのは本当で、会えなくなるのは嫌なんだ。だから、」

すっと、一度引っ込めた手を幸村は伸ばした。

「絶対に昨日みたいなことはしないと約束するから、また会ってほしい」

真剣な声に不二は身体を震わせる。どの口が言うのか、と。そんな言葉は信じられない。

「そんなの、信用できると思う?」
「本当にしない。手塚にも――っ」

手塚という単語を耳にした瞬間、不二は幸村の手首を強く握っていた。

「手塚に言うの!?」

まっすぐと幸村を睨む。幸村が困惑した表情だったことも、不二には関係なかった。

「手塚にだけは知られたくないんだね」

図星を突かれて、不二は思わず顔を背ける。
幸村はつかんできた不二の手にそっと手を重ねた。

「大丈夫だよ、誰にも言わない」
「……手塚にだけは、言わないで」
「うん、約束する。その代わり、また俺と会ってほしい。外でいい、話をするだけでいい」

卑怯だ。
心の中で言っても、それを言葉にできなかった。重ねられた手は暖かく、体温に触れた安心感に絆されそうになる。それはただの幻覚だと言い聞かせて、不二は手を振り払った。

「……とりあえず、今日は鍵を返して」
「うん」

否定も肯定もしなかった不二に、幸村は不二の家の鍵を握らせた。

「また、連絡するよ」

連絡なんて来なければいい。
不二は無言で部屋を後にする。
見上げた空は晴れて澄み渡っていて、肌に触れる空気が痛い。
全身の疲労感や痛みを感じていても、手の震えが止まっていることに気づいて、悔しくて強くこぶしを握る。
幸村の考えも、不二自身の感情も、何一つわからずにただその場に立っていた。

目からこぼれた涙が、頬を伝って地面へ落ちた。


作品名:hung up 作家名:すずしろ