夜鷹の瞳2
言外にシンドバッドに帰れと言い、マグリブは部屋を後にした。女官たちもおろおろとそれぞれ顔を見合わせ、言われるがままに部屋を片付け始めた。
ジャーファルを行かせてはいけないとシンドバッドが後を追おうとすると、服の袖をつかまれてシェラザードに再び止められた。振り返ったシンドバッドは彼女が頭から葡萄酒をかぶったままなことに気づいて慌てて膝をついて服の裾で汚れを拭った。
「行かせていいのか? このままでは彼女は……」
「ご安心ください。私どもは『プロ』ですので」
「しかし……。あなたにも辛い思いをさせた。もう少し早く止めに入るべきだった」
「この国の王様はずいぶん心優しいのね。こんな盲た女を気にかけるなど…」
「俺は人をそんなことで判断しない」
語気を強めたシンドバッドにシェラザードは息をのんだ。それから少し悲しそうに微笑んだ。
「…………お優しい王よ、よろしければあなたのお顔が知りたい。触らせていただけないかしら?」
「構わない」
そう頷いてシンドバッドは彼女の両手を引いて自分の頬に触れさせた。シェラザードは指先をさまよわせて鼻の高さやまぶたの膨らみ、耳の形までも確かめてふっと柔らかい笑みをこぼした。
「とても美形でいらっしゃる。でもとても悲しいことを身のうちに隠している。心を砕ける相手はいないのかしら」
「…………」
シンドバッドの表情がかすかに曇るのを感じ取ったシェラザードは「あら、ごめんなさい」と軽い調子で謝り、シンドバッドの頬を両手で包み込んで見えていないはずの自分の目と視線を合わせさせた。
「でも心配いらないわ。この世は良くも悪くも因果応報。善き人のところには善い人が自然と集まるものよ。王が道を外さなければあなたを助けてくれる人は必ずあらわれる。今はただ与えられたお務めを果たしてください」
天窓から差し込む月の光がシェラザードの輪郭を淡く照らしていた。彼女からふわりと漂う花の香りにシンドバッドは長い夢を見ているのではないかと錯覚した。
「君は何者だ…………?」
呆然と問うとシェラザードの紅い唇が美しい弧を描いた。
「言葉が過ぎましたわ。これもただの踊り子の戯れとどうかお許しくださいませ」
そう言いシェラザードは立ち上がった。今度はシンドバッドが彼女を引きとめようと立ち上がると、突然遠くで硝子が割る音がした。
何事かとシンドバッドが物音のしたほうを振り返った。そして脳裏に領主に連れて行かれたジャーファルがなぜか浮かび、嫌な予感がした。
「領主の部屋は!?」
シンドバッドは近くにいた女官に詰め寄って場所を聞き出すとなりふり構わず駆け出した。そして客間の上の階、その一番東の部屋の前に来た時に扉の向こうから鼓膜が破れんばかりの悲鳴が上がった。
(遅かったか……!?)
冷や汗が額にじわりと滲み扉を蹴破ると、シンドバッドは目の前の光景に目を奪われた。
*
床は一面血の海だった。最初の硝子が割れる音は入口の正面の窓のものだったようで、風がひゅうひゅうと吹き込みカーテンをゆるく揺らしていた。その向こうではまんまるの月が部屋に居合わせた者たちをじっと静観している。
シンドバッドと、床に転がるマグリブ。マグリブのその目は見開かれたまま仰向けに転がり、身体の中心には赤い糸が先についたヒョウが深々と刺さっている。その糸の先は残る銀髪の踊り子の手の中。少女はマグリブの傍らに一糸まとわぬ姿で佇み、静かな瞳で息絶えたマグリブを見下ろしている。
否、それは少女ではなかった。少年だった。
膨らみのない白い肌とその上に生々しく刻まれた無数の傷跡。その上に纏った返り血が細い腕を脚を伝って床に新たな血だまりを作る。
間の抜けたことにシンドバッドはその光景が悽絶すぎて、むしろ美しいと思ってしまった。その姿はまるで赤い花をその肌に咲かせているようではないか。
「君は……」
誰だ、と問おうとするとジャーファルはシンドバッドを振り返り、掴んだ糸を勢い良く引いてマグリブの体に刺さったヒョウを手の内に戻し、もう片方の手にも握られていたヒョウを構えた。
栓を失ったマグリブの心臓からまた新たな血が流れだし、夜闇より深く澄んだ少年のオニキスの双眸がまっすぐシンドバッドを捉えた。その鋭い眼光にシンドバッドの脳裏にシェラザードの言葉が蘇る。
(私どもは『プロ』ですので)
「プロってそっちの意味かよ……」
思わず自嘲にも似た笑みが漏れ、シンドバッドも剣を抜いて構えた。
遠くで一つ、夜鷹が鳴いた――――――――。