Amazing Grace
聖戦。それは、元々宗教的に神聖と見なされる行為の戦いを指す言葉だった。やがてそれは、正義の旗を掲げた戦いをも示すものとなる。
そういう意味では、リップシュタット戦役は確かに聖戦だったのだ。
―――不当に権力を振るう、忌まわしき門閥貴族達を一掃する
―――伝統ある秩序を汚す、おぞましき賤民どもに鉄槌を下す
リヒテンラーデ=ローエングラム枢軸に与する人々。
ブラウンシュヴァイク=リッテンハイム連合に与する人々。
彼らにとって自らの陣営は絶対の正義であり、それに逆らうものは悪である。所詮正義とは、そうした相対的なものにしか過ぎない。
そもそも、正義とはなんなのか。
正しかるべきことならば、何故万人が幸福になれないのか。
それすらも答えられないもの達に、正義を口にする権利があるとは到底思えない。
だが、意味を知らぬ正義を掲げたもの達による聖戦は、更に多量の血を欲した。
「・・・今、なんとおっしゃいました」
「惑星ヴェスターラントへの核攻撃を黙認する。
件の兵士の監視を強化せよ。そして、高速艦を一隻、ヴェスターラントへ至急向かわせるのだ」
随分と白いものの多くなった黒髪の将官の唇からは、先程と寸分変わらぬ言葉が漏れる。光を宿さぬ瞳は、彼の部下ではなく、虚空の一点を凝視していた。
上官の意図するものが何なのか、情報戦に長けたフェルナーに分からない筈がない。
―――非戦闘員ばかりの有人惑星に核攻撃をくわえる。
その所業が、明確な映像を伴なって目の前へと示されたとき、誰がブラウンシュヴァイク公の、門閥貴族達の味方をするだろう。
領民の叛乱。兵士達の離反。そして失う、正義の旗。
宇宙艦隊総参謀長として戦略は元より、基盤を揺るがす要素を排除するための政略をも手がけるオーベルシュタインのその選択は、恐らくこの場合では最適であろう。
異を唱える場合は、原案を凌ぐ代案が必要である。それなくして理想論を打ち立てるのは、責任を取る必要のない評論家のみに許された特権なのだ。
「・・・御意」
湧き上がる嘔吐感を押さえ、フェルナーの手が敬礼の形へと動く。その凍てつく空気に満たされた空間から一刻も早く退室しようと、黒い軍靴の踵が返された。
「フェルナー大佐」
低く静かな呼びかけで、その足が止まる。だが、フェルナーは振り向こうとしなかった。
「―――これは上官命令だ」
短い返答すらなく、ただ静かに執務室の扉が閉まる。
その言葉に込められた意味へ思いを致すことが、この時点の彼にはできなかった。
そこにあったのは、剥き出しの地面だった。
かつて帝国軍基地だった場所。
かつて軍病院だった場所。
瓦礫すらも残らずに、ただ抉れた大地だけが、フェルナーの目の前に広がっていた。
駐留艦隊の主力が不在の基地を、同盟軍の砲火は容赦なく破壊し尽くしていた。
同盟軍の流した虚報と、それを見抜くことのできなかった無能な司令部。他にも幾つもの要因が絡まりあった、悲劇。
フェルナーにとって決して忘れることのできない、それは一〇年前の情景だった。
強い嘔吐感が、寒気と貧血を呼ぶ。
総旗艦ブリュンヒルトの深部にある、高級士官の執務領域――その廊下で、フェルナーは崩れるように、床へと座り込んだ。嘔吐感は抑えられたが、逆にそのことによって震えが生じる。
謀略を必要としない戦争など、有り得ない。時として情報戦の勝利は、一局面での戦術上の勝利を凌駕する。
そして、今がまさにその時なのだ。
軍人として、第一級情報将校としてのフェルナーはそれを理解し、納得していた。だが、浮かび上がった過去の情景は、これから起るであろう未来の惨劇と重なり、一〇年前のあの苦しみを鮮明に蘇らせた。
「・・フェルナー大佐」
気遣わしげな声にゆっくりと頭を上げる。そこには、総参謀長の副官である漆黒の髪の士官がいた。長い足を折り、膝を突いて目線を合わせている。
「シュルツ、か」
「はい。お顔の色がよろしくないようですが、大丈夫ですか・・・?」
そういう彼の顔も、酷く青ざめている。
フェルナーは心配ないというふうに軽く手を動かすと、立ち上がった。
気分は最悪だが、震えは止まっている。
こういうときには側に誰かいる方が、反って落ち着くものらしい。日頃から穏やかで、人当たりのいい彼はまさにうってつけの相手だった。
「―――シュルツ・・・お前も聞いたのか」
なにを、とは敢えて言わなかった。だが、一瞬で強張ったシュルツの顔が、どんな言葉よりも雄弁、かつ正確に答えを返す。
やがて、黒髪の士官は静かに首肯した。
「そうか・・・」
堪らん話だな。殊更気軽に言ったその言葉が、愚痴以上のなにものでもないことを、フェルナー自身が一番よく分かっていた。しかし、その言葉以外は出てこなかった。
ただ頷くだけでもいい。肯定して欲しかった。そうすれば、何かが救われる。そんな気がしていたのだ。
報われるであろう、その希望。だが、女性のものと見紛うような美しい唇は、残酷な旋律を奏でる。
「仕方ありませんよ。上官命令なのですから」
冷たい声は、無理に作っていた笑顔を凍りつかせる。
任務に忠実で無感動な軍人そのものの僚友の姿が、瞠目した藍玉の瞳へと映っていた。
「・・・シュルツ。今、なんて言った」
「聞えませんでしたか。
あれは、上官命令です。私達に逆らう権利はありません。
仕方がな―――」
最後の言葉を発するより先に、シュルツの体は壁へと叩きつけられた。
端正な顔立ちの左頬が、見る間に赤く腫れ上がる。
倒れかけたシュルツの襟元を掴むと、フェルナーは彼の体を自分と壁に挟むように押し付けた。
「・・・上官に言われたから、これ幸いに逃げるのか。仕方がないと・・・どうしようもないと・・・?
それがどういうことか、分かってるのか。シュルツ!」
「・・・何度でも繰り返します。
あれは上官命令です。逆らうことは許されない・・・ので、す」
襟元を掴んだフェルナーの手へ、更に力がこもる。苦しそうな呼吸をしながらも、シュルツは自らの言葉を撤回しようとはしなかった。
やがて唇を強く噛むと、フェルナーは叩き付けるようにして、シュルツを解放した。
背は高いものの、彼より格段に華奢な体が床へと倒れ込む。
「こんな世の中では、そのぐらいの神経の方が長生きするだろうさ。
お前も・・・総参謀長閣下殿も、な」
強い嘲りが、フェルナーの顔を覆う。
シュルツならば、逃げないと思っていた。
罪を罪として、痛みを痛みとして自分の中に残す人間だろうと、ある意味期待していた。だからこそ、彼の言葉が許せなかった。
勝手に期待して、勝手に失望し、勝手に苛立つ。この上なき、滑稽な一人劇だ。
陽炎のように浮かぶ歪んだ嘲笑の殆どは、目の前の僚友でも冷厳なる上官でもなく、彼自身へと向かっていた。
「―――からないんです、か・・・」
フェルナーの足元で、よろけながらもシュルツがその半身を起こす。
「・・・なんだ。聞こえねえよ」
「大佐・・・本当に分からないんですか!」
振り仰いだ琥珀の瞳には、大粒の涙が溢れていた。
そういう意味では、リップシュタット戦役は確かに聖戦だったのだ。
―――不当に権力を振るう、忌まわしき門閥貴族達を一掃する
―――伝統ある秩序を汚す、おぞましき賤民どもに鉄槌を下す
リヒテンラーデ=ローエングラム枢軸に与する人々。
ブラウンシュヴァイク=リッテンハイム連合に与する人々。
彼らにとって自らの陣営は絶対の正義であり、それに逆らうものは悪である。所詮正義とは、そうした相対的なものにしか過ぎない。
そもそも、正義とはなんなのか。
正しかるべきことならば、何故万人が幸福になれないのか。
それすらも答えられないもの達に、正義を口にする権利があるとは到底思えない。
だが、意味を知らぬ正義を掲げたもの達による聖戦は、更に多量の血を欲した。
「・・・今、なんとおっしゃいました」
「惑星ヴェスターラントへの核攻撃を黙認する。
件の兵士の監視を強化せよ。そして、高速艦を一隻、ヴェスターラントへ至急向かわせるのだ」
随分と白いものの多くなった黒髪の将官の唇からは、先程と寸分変わらぬ言葉が漏れる。光を宿さぬ瞳は、彼の部下ではなく、虚空の一点を凝視していた。
上官の意図するものが何なのか、情報戦に長けたフェルナーに分からない筈がない。
―――非戦闘員ばかりの有人惑星に核攻撃をくわえる。
その所業が、明確な映像を伴なって目の前へと示されたとき、誰がブラウンシュヴァイク公の、門閥貴族達の味方をするだろう。
領民の叛乱。兵士達の離反。そして失う、正義の旗。
宇宙艦隊総参謀長として戦略は元より、基盤を揺るがす要素を排除するための政略をも手がけるオーベルシュタインのその選択は、恐らくこの場合では最適であろう。
異を唱える場合は、原案を凌ぐ代案が必要である。それなくして理想論を打ち立てるのは、責任を取る必要のない評論家のみに許された特権なのだ。
「・・・御意」
湧き上がる嘔吐感を押さえ、フェルナーの手が敬礼の形へと動く。その凍てつく空気に満たされた空間から一刻も早く退室しようと、黒い軍靴の踵が返された。
「フェルナー大佐」
低く静かな呼びかけで、その足が止まる。だが、フェルナーは振り向こうとしなかった。
「―――これは上官命令だ」
短い返答すらなく、ただ静かに執務室の扉が閉まる。
その言葉に込められた意味へ思いを致すことが、この時点の彼にはできなかった。
そこにあったのは、剥き出しの地面だった。
かつて帝国軍基地だった場所。
かつて軍病院だった場所。
瓦礫すらも残らずに、ただ抉れた大地だけが、フェルナーの目の前に広がっていた。
駐留艦隊の主力が不在の基地を、同盟軍の砲火は容赦なく破壊し尽くしていた。
同盟軍の流した虚報と、それを見抜くことのできなかった無能な司令部。他にも幾つもの要因が絡まりあった、悲劇。
フェルナーにとって決して忘れることのできない、それは一〇年前の情景だった。
強い嘔吐感が、寒気と貧血を呼ぶ。
総旗艦ブリュンヒルトの深部にある、高級士官の執務領域――その廊下で、フェルナーは崩れるように、床へと座り込んだ。嘔吐感は抑えられたが、逆にそのことによって震えが生じる。
謀略を必要としない戦争など、有り得ない。時として情報戦の勝利は、一局面での戦術上の勝利を凌駕する。
そして、今がまさにその時なのだ。
軍人として、第一級情報将校としてのフェルナーはそれを理解し、納得していた。だが、浮かび上がった過去の情景は、これから起るであろう未来の惨劇と重なり、一〇年前のあの苦しみを鮮明に蘇らせた。
「・・フェルナー大佐」
気遣わしげな声にゆっくりと頭を上げる。そこには、総参謀長の副官である漆黒の髪の士官がいた。長い足を折り、膝を突いて目線を合わせている。
「シュルツ、か」
「はい。お顔の色がよろしくないようですが、大丈夫ですか・・・?」
そういう彼の顔も、酷く青ざめている。
フェルナーは心配ないというふうに軽く手を動かすと、立ち上がった。
気分は最悪だが、震えは止まっている。
こういうときには側に誰かいる方が、反って落ち着くものらしい。日頃から穏やかで、人当たりのいい彼はまさにうってつけの相手だった。
「―――シュルツ・・・お前も聞いたのか」
なにを、とは敢えて言わなかった。だが、一瞬で強張ったシュルツの顔が、どんな言葉よりも雄弁、かつ正確に答えを返す。
やがて、黒髪の士官は静かに首肯した。
「そうか・・・」
堪らん話だな。殊更気軽に言ったその言葉が、愚痴以上のなにものでもないことを、フェルナー自身が一番よく分かっていた。しかし、その言葉以外は出てこなかった。
ただ頷くだけでもいい。肯定して欲しかった。そうすれば、何かが救われる。そんな気がしていたのだ。
報われるであろう、その希望。だが、女性のものと見紛うような美しい唇は、残酷な旋律を奏でる。
「仕方ありませんよ。上官命令なのですから」
冷たい声は、無理に作っていた笑顔を凍りつかせる。
任務に忠実で無感動な軍人そのものの僚友の姿が、瞠目した藍玉の瞳へと映っていた。
「・・・シュルツ。今、なんて言った」
「聞えませんでしたか。
あれは、上官命令です。私達に逆らう権利はありません。
仕方がな―――」
最後の言葉を発するより先に、シュルツの体は壁へと叩きつけられた。
端正な顔立ちの左頬が、見る間に赤く腫れ上がる。
倒れかけたシュルツの襟元を掴むと、フェルナーは彼の体を自分と壁に挟むように押し付けた。
「・・・上官に言われたから、これ幸いに逃げるのか。仕方がないと・・・どうしようもないと・・・?
それがどういうことか、分かってるのか。シュルツ!」
「・・・何度でも繰り返します。
あれは上官命令です。逆らうことは許されない・・・ので、す」
襟元を掴んだフェルナーの手へ、更に力がこもる。苦しそうな呼吸をしながらも、シュルツは自らの言葉を撤回しようとはしなかった。
やがて唇を強く噛むと、フェルナーは叩き付けるようにして、シュルツを解放した。
背は高いものの、彼より格段に華奢な体が床へと倒れ込む。
「こんな世の中では、そのぐらいの神経の方が長生きするだろうさ。
お前も・・・総参謀長閣下殿も、な」
強い嘲りが、フェルナーの顔を覆う。
シュルツならば、逃げないと思っていた。
罪を罪として、痛みを痛みとして自分の中に残す人間だろうと、ある意味期待していた。だからこそ、彼の言葉が許せなかった。
勝手に期待して、勝手に失望し、勝手に苛立つ。この上なき、滑稽な一人劇だ。
陽炎のように浮かぶ歪んだ嘲笑の殆どは、目の前の僚友でも冷厳なる上官でもなく、彼自身へと向かっていた。
「―――からないんです、か・・・」
フェルナーの足元で、よろけながらもシュルツがその半身を起こす。
「・・・なんだ。聞こえねえよ」
「大佐・・・本当に分からないんですか!」
振り仰いだ琥珀の瞳には、大粒の涙が溢れていた。
作品名:Amazing Grace 作家名:瑞菜櫂