何ができる?
ふにゃふにゃとしているくせに、ここぞと言うときは譲らない。柔らかな笑みに包まれている意思はいつだってこちらを折れさせる。
「……そうですか、そいつぁ残念」
口調はあくまで軽いが、本気でそう思っていることが分かるそれ。いつこっちに来てくれたってかまわねぇですからねという未練がましい台詞に眉根が寄る。あまつさえ鴇の手を握っている。鴇がこんな状態でなかったなら即座に引き剥がしているところだ。
「ああ、そろそろ帰らねぇと。紅ちゃんに怒られちまうんで」
時を告げる鐘の音に、名残惜しげに鴇の手を離すとすくりと立ちあがる。
「それじゃあ、六合さん。また来ます。今度は何か美味い甘味でも持ってきやしょう」
待っててくだせぇと胡散臭い笑みを残し帰っていった。鴇は冷やし飴を一口飲むとふにゃりとその相好を崩した。
『美味しい。露草も飲む?』
「いらねぇ」
『そう? そういえば、さっきもそうだけど露草は黒鳶さんと仲悪いよね』
「気にくわねぇだけだ。そもそもどんな仲でもねぇから悪くなりようもねぇ」
しいて言うのならば、天帝を倒すために手を組んでいる、それだけのこと。それすらも鴇がいなければ成りたつものではなかったものだ。
裏にどんな思惑があったとしても、陰陽寮も天座衆もひとえに鴇の為に動く。そう、鴇の、ために。
「ほんと、気にくわねぇ」
『うん? 黒鳶さんのこと?』
問には答えずに、小首を傾げる鴇の頭を撫でる。自分でも持て余す感情を、鴇に知られたくはなかった。
使役師の男が帰ってからも陰陽寮の医者やら煤竹やらがやって来て、鴇は床に入ったまま一人ひとりに嬉しそうな笑みを浮かべて応えていた。それがいけなかったのか、宵の口になると熱を出し寝込んでしまった。
苦しそうに浅い息をする鴇の額に、絞った手拭いを乗せながらひっそりと溜め息を吐く。
「無理はすんなって言っただろうが、この馬鹿」
答えはない。包帯が巻かれた首をつたう汗に眉根を寄せて、もう一枚の手拭でそこを拭う。
薬は飲ませた。薬を飲むために何か腹に入れなければとほんの少し粥も食べさせた。もう、他に何もしてやれることがない。
「……本当に、てめぇでてめぇが気にくわねぇ」
何もしてやれない、無力な自分。
ずっと昔から、自分に力のないことは知っていた。
それが嫌で強くなろうと思った。
前よりは強くなったと思っていた。
それなのに。そのはずだったのに。弱った人間一人、助けることもできない。
「俺は、お前に、何をしてやれる? 鴇」
さりげなく気遣ってやる事もできなければ、旨い飯を作ってやることもできない。
暇つぶしの相手になってやれるほど遊びを知らないし、甘味で笑顔にすることもできない。
――俺は、お前に何をしてやれるんだろう?
「ぅ……」
「鴇?」
小さく唸った声がした。鴇がうっすらと目を開けてこちらを見ていた。
「どうした? 咽喉渇いたか?」
平八が用意してくれていた水差しに手を伸ばせば、その手をそっと掴まれた。
掴んでくる右手は熱い。
「ぁ……ぇ、……ぅ、ぁ」
何かを言おうとしているのか、鴇の口がぱくぱくと動く。けれども、熱で呂律が廻らないのか唇がうまく形を成しえない。
「ゆっくりでいい。声も出さなくて良いから。どうした?」
掴んできた右手を握り返しながら言えば、鴇はぼんやりとこちらを見てくる。左右違う色の眼に映る自分は揺らいでいて、ひどく落ち着かない気分になった。
『誰も、いないんだ』
音のない言葉が紡がれる。
『小さいころ、風邪を引いて、寝込んで。眼が覚めると、天井が高く見えて、部屋が広く思えて』
こちらを向いていた視線は天井へ。今、その眼は遠い過去を映しているのだろう。
『すごく、こわかった』
握った手が僅かにこちらを握り返してくる。
『だぁれもいない。いま、せかいにいるのは、おれだけだって』
弱々しい、力。
なんて非力な手なのだろう。
『ひとりぼっちなんだって、おもった』
こんな弱い生き物が、ひとりでなんて生きられるはずがないのに。
熱い手を握る手に力を込めれば、鴇はゆっくりとこちらを向いた。
『でも、いまは、露草がいる』
ゆうるりと、綻ぶ口元。
淡い笑み。
眩しい陽の元ではかき消されてしまうような、仄かに浮ぶ、それ。
『露草がいてくれて、よかった』
ぽすんと、頭に手を置かれる。
そのまま、ひたすら優しく撫でられて。
『ありがと、露草』
目が熱い。
何かか溢れ出しそうになるのを、無理矢理浮かべた笑みで誤魔化す。
「盗み聞きしてんじゃねょ、ばぁか」
きっと聞こえてはいなかっただろう。それでも知ったことかと憎まれ口を一つ。
そして、憎まれ口のついでに。
「ありがとな、鴇」
鴇はくすぐったそうに微笑んだ。
自分に何ができるのか。馬鹿みたいに必死に考えた。
出来ないことの方が多くて、それでも、やっと見つけた一つのこと。
何もしてやれないけれど、傍にいて、その手を握るよ。