Experiment failure
実際、腕の傷は縫うようなものではなく、ただ見事に服ごとすっぱりいったので気が動転してしまったのだ。
気がついたらセルティさんのマンションで横になっていた。
おおみかどよ きぜつしてしまうとは なさけない、である。
今までの人生で五本の指に入る恥ずかしい体験だ。出来れば忘れてしまいたい。しかし心優しい首の無い友人が、それから事あるごとに心配してくるのでなかなか忘れられそうになかった。
「本当にごめんね。彼女にはよく言っておいたから、もう絶対、君に危害は加えないよ」
「……あの、どうして彼女」
「ごめんね」
「…………」
「だからこれはお詫び。良い肉沢山買って来たから遠慮しないで食べてね」
それはお詫びと言うより口止め料なのではないか、と思ったけれど僕は黙って頷いておいた。
狭い部屋に鍋の煮立つ音が響く。
皮膚が白くなるほど包丁を握りしめた指の持ち主と微笑して腕を広げて見せた彼を繋ぐ糸は何処にあるのだろう。彼に罵詈雑言をぶつけてくる女性や彼の話を熱っぽい瞳で聞く少年少女に繋がる糸の束を彼は何処に隠し持っているのだろう。
僕はこの人を知らない。
お酒の入った臨也さんは饒舌になる。前言撤回。入っていなくても饒舌だ。とするとアルコールは関係ないのか。真性か…………。
僕は火の消えた鍋の残りを椀に移しながら臨也さんの話にぼんやり耳を傾けていた。
「と言う結末を迎えたわけだよ。その男はね」
彼の話は壮大なようでいてありきたりで、平凡なようでいて生臭く、どこかフィクションめいている。事実は小説より奇なりというのは、本当だろうか。疑わしいものである。
「はい。…………ええと、それって結局なんの教訓なんですか?」
「……神話とか童話じゃないんだからさあ。もっと本読みなよ、高校生。存在するんじゃなくて、実存しなきゃ」
缶ビールを揺らしながらふらふらと話す臨也さんを見かね、僕は箸を置いて台所へ立った。ペットボトルからコップに水を注ぐ。
「また、何かの哲学ですか?」
「そ、サルトル。あれ読みなよ。シュレ猫」
「しゅれ……猫?」
「君みたいな学生にもわかりやすく哲学を説いた本。ところで帝人君は猫好き?それとも犬派かな」
「猫も犬も好きですよ。臨也さんはどうなんですか?」
「俺は人間が好き」
「そ、そうですか」
半ばあきれながら彼の前にコップを置いた。
「帝人君」
存外強い力で腕を引かれて、僕は平衡感覚を失って臨也さんの傍に膝をついた。
「何、か」
彼の手元が鈍く光った。
網膜に焼きついた肉厚な光の尾。
癒着した傷が赤く開くような錯覚をする。熱いのか、痛いのか、とにかく乱暴に感覚を揺さぶられた。
何も見えない。暗くなるのではなく、何も見えなくなる。
「っ……」
強張った体をからかうように臨也さんが喉の奥で笑ったのがわかった。まぶたに触れた、冷たい金属の感触に心臓が悲鳴を上げてやっと、目をつむっていたことを自覚した。
「…犬みたい」
「え?」
驚いて開けた目に、彼の中指を囲む銀色が映った。
「癖になってるね。金属の反射に目をつむるの」
「あ…………」
日常のちょっとした仕草に混ぜて、誰にも気づかせまいとしていたのに。トラウマとはつまるところ概念だけになった傷なのだ。弱い場所だ。誰も自分の弱点を人に見せたがらない。
反射的に身を引いた僕の右腕を、臨也さんは爪が食い込むほど強く掴んだ。
「もう二度と、誰にも傷付けさせないから」
長い指が僕の左腕の傷を服の上から指で辿る。
「ごめんね」
慎ましやかに傷跡を撫でる指とは対照的に、僕を見るのはあの優しげな目だ。抉る場所を探るような、突き放した視線。
ずいぶん前にも、この視線を浴びた気がする。
いや、ずっと前から臨也さんは僕をこの目で見ていた。それに僕が慣れただけなんだ。
初めて会った時も、その後も、彼は僕を観察していた。
自販機が空から降ってきて僕のすぐ横に落ちた時も、青くなっているであろう顔の僕を茶化しながら。
わざわざ池袋の公園に呼び出しておきながら何時間も待ちぼうけを食わさせた挙句、派手な出で立ちの青年たちに絡まれた時も、後から来て僕の腫れた頬を突きながら「災難だったねえ」と一部始終を見ていたような口調であった。
彼は、僕がそれらにどういう反応をするのか窺っていたように思う。
それはきっと、彼が頻繁に口にする人間についての考察に関係するのだろう。人間観察が趣味などと、あの年になっても豪語するのならばそれは本当に趣味なのだ。大人は趣味に全力だから、その成果は計り知れない。おもちゃの缶詰だって、きっと子供より大人の方が持っているに違い無いのだ。
けれど慈しむような掌と、瞳の温度差の意味が僕にはわからない。
これには一体どういう哲学的な実験名称があるんですかと聞く事の出来ないまま、僕はぬるい視線を避ける為にもう一度目をつむった。
作品名:Experiment failure 作家名:東山