ゆうつづ
あかん。あかんわ。
宝生蝮は慌てて別の通路に入り込むと、背中を冷たい壁に押し付けた。なぜか動悸が激しい。顔がやたら熱かった。
仏教系祓魔師の制服の胸元に抱えた包みを確かめるようにそっと撫でる。
これは義理や。義理チョコやんか。たかがこんなチョコを、お申に渡すのがこないに難しいなんて想定外やわ。
明陀宗の戦闘員が大半を占める、正十字騎士團日本支部京都出張所だったが、バレンタインデーの浮き足立ったような雰囲気は隠しようがなかった。宝生家の娘たち、蝮、青、錦も例に漏れず、義理だと言って小さなチョコレートの包みを用意した。京都を離れて正十字学園に通っている少年たちには宅急便でそこそこ良いのを送っておいた。きっと今頃届いているだろう。
姉妹たちで手分けして、團員達に手当たり次第に渡す。大半がもう渡し終わっているはずだ。
だが、蝮が渡すのを買って出た志摩柔造だけには、いまだにチョコレートが渡せていなかった。
日ごろから宝生と志摩の子供たちの仲が悪いのは、京都出張所の人間なら誰でも知っている。それに全員に義理だと渡しているのだから、柔造にもさっさと渡してしまえば良い。それだけのことだ。
朝から食堂で食事をして居るところや、部下や團員達と談笑しているところ。仕事の指示を出しているところなど、ずっと隙を伺っているのだが、なかなか渡せるタイミングがなかった。おまけにちょこちょこと女性團員からチョコレートを貰って、ヤニ下がった顔を見せられたのが非常に腹立たしい。
しかし、ようやっと一人きりになったところを見つけても、いざとなると足が動かなかった。
たかが義理やんか。
そうや、一つだけ持ってるから渡しにくいんや。妹たちのところへ急いで取って返し、扉を壊しそうな勢いで開ける。
「まだ配るの余うてるか？」
姉の勢いに押された彼女達が差し出した包みを受け取ると、先ほど柔造を見かけたところへ駆け戻る。
これで皆に配っとるような感じで、まだ渡してへんかったか？ほならやるわ。これや、これで自然やろ。
しかしがらんとした通路には誰も居なかった。
「なんや…」
蝮はどっと力が抜けるのを感じた。
定食の乗った盆を手に食堂を彷徨う。昼時のピークを過ぎて空いてる席はいくつもあったが、目は無意識に柔造を探している。隅の方でどっと笑い声が上がった。目をそちらにやると、柔造、金造の兄弟が團員達に囲まれて食事をして居た。
ふらりとそちらに近寄って行く。今日の蝮は、柔造のストーカーのように行動して居ることに気がついていない。
「蝮さん」
京都出張所の所長を務める志摩八百造が、蝮に気がついて手招きする。隣に父の宝生蠎が座っている。
「あ…、いや私《あて》は…」
足が竦んだ。柔造が一人で居ても渡せないのに、父親が目の前に居たらもっと渡せるワケがない。
ふと柔造たちに目をやって、血の気が引く。
柔造、金造の兄弟と、團員たちが小さな包みを山積にして、チョコレートを貪り食っていた。恐らく今日の午前中に貰ったチョコレートだろう。美味いと言いながらも、味わっているのか居ないのか判らないようなスピードでチョコレートが平らげられて行く。
こ…、このバチ当たり共が…！
思わず心の中で舌打ちをする。
確かに渡したらあいつらの物や。でもこんな風に乱暴に平らげられるんか…。
平らげてもらうのは嬉しい、でもそんなにがっつかなくてもいいではないか。
蝮はふらりと後ずさる。そこへ、妹達が寄ってくる。
「姉様、渡しはったんですか？」
「金造の申、目ぇ真ん丸くしてはりましたえ」
青と錦がくすくすと笑う。
「あ、いや…。まだなんや…」
蝮が歯切れ悪く言う。
「私らが渡したりますか？」
心配した目で妹達が見つめてくる。たかだかチョコレート一つ。頼んでしまおうか。が、やはりそれは頼めない。頼みたくなかった。
「いや、エエ。私がちゃんと渡す」
アイツ、またヤニ下がって。
女性團員の一人からチョコレートの小さな包みを渡されている。柔造は嬉しそうに頬を染めて笑っていた。
「お申」
「なんや？」
柔造が振り向いた。途端に蝮の思考が止まる。何をしにきたのかすら、思い出せない。口が固まってしまったかのように動かなかった。
「なんか用か？」
チョコレートを渡していた女性が蝮と柔造に一礼して去って行く。その時に女性がふっと微笑んだ。その笑みが「渡せるもんなら渡してみろ」と蝮を嘲って煽り立てたような気がした。
私かて…。私かて…。チョコレートくらい。義理やし。簡単や。
「おい、蝮？」
柔造が訝しげな顔をして覗き込んできた。口がやっと動いたと思ったら、全く意図しない言葉が口をついて出た。
「な…、なんでもあれへん」
「そうか？」
「そうや、バカが伝染る。近寄らんで」
ぷい、とそっぽを向くと、お前が呼んだんやないか！と舌打ちする柔造に背を向けてスタスタと歩み去る。
あかん。もう渡されへん。
日が暮れようとして居る。柔造には話しかけられないわ、渡そうとすれば渡そうと思うほど、頭が混乱して思った言葉すらも出てこなくなる。どっと疲れを感じた蝮は、風に当たりたくなって出張所の建物の外に出た。建物の裏手にはほとんど人が来ない、蝮のお気に入りの場所がある。へたり込むように壁にもたれて座り込むと、途端に寂しくなって蛇《ナーガ》を呼び出した。
ぬめるような光沢を持ちながら、乾いた肌触りが蝮の肩回りにじゃれついた。
ほんま、私どないしたんやろ。こんなチョコレートも渡されへんなんて。蛇を撫でながら、膝に顔を埋めて溜め息を吐く。
「おい、蝮」
うわ、蛇がおるやん…！ビクっ、とした柔造に蛇がからかうように牙を剥きだす。
「お申…」
「お前どうしたんや、今日おかしいで」
「…放っとき」
確かにおかしいのは自分でも自覚がある。だが、自分の振る舞いがおかしくなる原因にそれを指摘されたくなかった。
柔造が隣に座り込む。しゃりんと錫杖《キリク》の環が鳴る。壁にもたれて、夕焼けに染まった空をぼんやりと眺めていた。
「久しぶりやな、こんな空見るの」
京都出張所の塀と植え込み越しに、赤くなった空が見える。空に浮かぶ雲も燃え上がるような色に染まっていた。その切れ間から一際輝く星が見えた。
「…長庚《ゆうつづ》…」
「ゆ…？」
「ゆうつづ、宵の明星、金星のことや、お申」
地面に石ころで『長庚』と書いてみせる。
「『ちょうこう』やないか」
「ちょうこうとも読むんや。夕星、夕方の星とも書く」
蝮がふと視線を上げると、柔造がいつになく穏やかな顔をして自分を見つめていた。
今やったら渡せる気がする。蝮は懐から一日入れっぱなしにしていた包みを取り出し、柔造に差し出した。
「……これ」
「なんや？」
柔造が突き出された包みをきょとんとした顔で受け取る。
「…み、…見て判らんか、お申。チョコレートや」
「ああ。その、バレンタインデーのやつやな」
言わずもがなのことを柔造はもごもごと呟いた。
「い…、言っとくけどな、義理やで」
「義理ィ？」
宝生蝮は慌てて別の通路に入り込むと、背中を冷たい壁に押し付けた。なぜか動悸が激しい。顔がやたら熱かった。
仏教系祓魔師の制服の胸元に抱えた包みを確かめるようにそっと撫でる。
これは義理や。義理チョコやんか。たかがこんなチョコを、お申に渡すのがこないに難しいなんて想定外やわ。
明陀宗の戦闘員が大半を占める、正十字騎士團日本支部京都出張所だったが、バレンタインデーの浮き足立ったような雰囲気は隠しようがなかった。宝生家の娘たち、蝮、青、錦も例に漏れず、義理だと言って小さなチョコレートの包みを用意した。京都を離れて正十字学園に通っている少年たちには宅急便でそこそこ良いのを送っておいた。きっと今頃届いているだろう。
姉妹たちで手分けして、團員達に手当たり次第に渡す。大半がもう渡し終わっているはずだ。
だが、蝮が渡すのを買って出た志摩柔造だけには、いまだにチョコレートが渡せていなかった。
日ごろから宝生と志摩の子供たちの仲が悪いのは、京都出張所の人間なら誰でも知っている。それに全員に義理だと渡しているのだから、柔造にもさっさと渡してしまえば良い。それだけのことだ。
朝から食堂で食事をして居るところや、部下や團員達と談笑しているところ。仕事の指示を出しているところなど、ずっと隙を伺っているのだが、なかなか渡せるタイミングがなかった。おまけにちょこちょこと女性團員からチョコレートを貰って、ヤニ下がった顔を見せられたのが非常に腹立たしい。
しかし、ようやっと一人きりになったところを見つけても、いざとなると足が動かなかった。
たかが義理やんか。
そうや、一つだけ持ってるから渡しにくいんや。妹たちのところへ急いで取って返し、扉を壊しそうな勢いで開ける。
「まだ配るの余うてるか？」
姉の勢いに押された彼女達が差し出した包みを受け取ると、先ほど柔造を見かけたところへ駆け戻る。
これで皆に配っとるような感じで、まだ渡してへんかったか？ほならやるわ。これや、これで自然やろ。
しかしがらんとした通路には誰も居なかった。
「なんや…」
蝮はどっと力が抜けるのを感じた。
定食の乗った盆を手に食堂を彷徨う。昼時のピークを過ぎて空いてる席はいくつもあったが、目は無意識に柔造を探している。隅の方でどっと笑い声が上がった。目をそちらにやると、柔造、金造の兄弟が團員達に囲まれて食事をして居た。
ふらりとそちらに近寄って行く。今日の蝮は、柔造のストーカーのように行動して居ることに気がついていない。
「蝮さん」
京都出張所の所長を務める志摩八百造が、蝮に気がついて手招きする。隣に父の宝生蠎が座っている。
「あ…、いや私《あて》は…」
足が竦んだ。柔造が一人で居ても渡せないのに、父親が目の前に居たらもっと渡せるワケがない。
ふと柔造たちに目をやって、血の気が引く。
柔造、金造の兄弟と、團員たちが小さな包みを山積にして、チョコレートを貪り食っていた。恐らく今日の午前中に貰ったチョコレートだろう。美味いと言いながらも、味わっているのか居ないのか判らないようなスピードでチョコレートが平らげられて行く。
こ…、このバチ当たり共が…！
思わず心の中で舌打ちをする。
確かに渡したらあいつらの物や。でもこんな風に乱暴に平らげられるんか…。
平らげてもらうのは嬉しい、でもそんなにがっつかなくてもいいではないか。
蝮はふらりと後ずさる。そこへ、妹達が寄ってくる。
「姉様、渡しはったんですか？」
「金造の申、目ぇ真ん丸くしてはりましたえ」
青と錦がくすくすと笑う。
「あ、いや…。まだなんや…」
蝮が歯切れ悪く言う。
「私らが渡したりますか？」
心配した目で妹達が見つめてくる。たかだかチョコレート一つ。頼んでしまおうか。が、やはりそれは頼めない。頼みたくなかった。
「いや、エエ。私がちゃんと渡す」
アイツ、またヤニ下がって。
女性團員の一人からチョコレートの小さな包みを渡されている。柔造は嬉しそうに頬を染めて笑っていた。
「お申」
「なんや？」
柔造が振り向いた。途端に蝮の思考が止まる。何をしにきたのかすら、思い出せない。口が固まってしまったかのように動かなかった。
「なんか用か？」
チョコレートを渡していた女性が蝮と柔造に一礼して去って行く。その時に女性がふっと微笑んだ。その笑みが「渡せるもんなら渡してみろ」と蝮を嘲って煽り立てたような気がした。
私かて…。私かて…。チョコレートくらい。義理やし。簡単や。
「おい、蝮？」
柔造が訝しげな顔をして覗き込んできた。口がやっと動いたと思ったら、全く意図しない言葉が口をついて出た。
「な…、なんでもあれへん」
「そうか？」
「そうや、バカが伝染る。近寄らんで」
ぷい、とそっぽを向くと、お前が呼んだんやないか！と舌打ちする柔造に背を向けてスタスタと歩み去る。
あかん。もう渡されへん。
日が暮れようとして居る。柔造には話しかけられないわ、渡そうとすれば渡そうと思うほど、頭が混乱して思った言葉すらも出てこなくなる。どっと疲れを感じた蝮は、風に当たりたくなって出張所の建物の外に出た。建物の裏手にはほとんど人が来ない、蝮のお気に入りの場所がある。へたり込むように壁にもたれて座り込むと、途端に寂しくなって蛇《ナーガ》を呼び出した。
ぬめるような光沢を持ちながら、乾いた肌触りが蝮の肩回りにじゃれついた。
ほんま、私どないしたんやろ。こんなチョコレートも渡されへんなんて。蛇を撫でながら、膝に顔を埋めて溜め息を吐く。
「おい、蝮」
うわ、蛇がおるやん…！ビクっ、とした柔造に蛇がからかうように牙を剥きだす。
「お申…」
「お前どうしたんや、今日おかしいで」
「…放っとき」
確かにおかしいのは自分でも自覚がある。だが、自分の振る舞いがおかしくなる原因にそれを指摘されたくなかった。
柔造が隣に座り込む。しゃりんと錫杖《キリク》の環が鳴る。壁にもたれて、夕焼けに染まった空をぼんやりと眺めていた。
「久しぶりやな、こんな空見るの」
京都出張所の塀と植え込み越しに、赤くなった空が見える。空に浮かぶ雲も燃え上がるような色に染まっていた。その切れ間から一際輝く星が見えた。
「…長庚《ゆうつづ》…」
「ゆ…？」
「ゆうつづ、宵の明星、金星のことや、お申」
地面に石ころで『長庚』と書いてみせる。
「『ちょうこう』やないか」
「ちょうこうとも読むんや。夕星、夕方の星とも書く」
蝮がふと視線を上げると、柔造がいつになく穏やかな顔をして自分を見つめていた。
今やったら渡せる気がする。蝮は懐から一日入れっぱなしにしていた包みを取り出し、柔造に差し出した。
「……これ」
「なんや？」
柔造が突き出された包みをきょとんとした顔で受け取る。
「…み、…見て判らんか、お申。チョコレートや」
「ああ。その、バレンタインデーのやつやな」
言わずもがなのことを柔造はもごもごと呟いた。
「い…、言っとくけどな、義理やで」
「義理ィ？」