サイレン
Wisdom Of The World
くいと腕を引かれて、はたと我に返った。右腕を掴む指から手首、ローブに覆われた腕を辿って、リーマスはようやくその手の持ち主の顔を見る。目をいっぱいに開いて、信じられないものを見たときのような顔で息を呑むピーターの顔。何かあったのかと彼の指に手を重ねると、ようやくわずかに表情が緩められた。
「なに?なにかあったの?」
「・・・なにかって、その先、階段ないよ?」
え?
ピーターの視線を追って見た自分の靴の先、確かにそこに階段はなかった。階段はおろか、床さえ。自分と同じ制服を着た学生がはるか下に見え、それがちょこちょこと動く様はまるでミニチュアのようだ。ぎいい、と頭上で軋む音がして、リーマスは自分の置かれた状況をようやく理解する。ホグワーツの階段はきまぐれ、そんなことは入学した初日に脳に刻まれたはずなのに。
「ああほんとだ、ありがとう」
まだ驚きの抜けない顔でじっと見上げてくるピーターに、リーマスはにっこり笑ってそう言った。君のおかげで落ちなくて済んだよ───そんな気持ちだったのに、ピーターは腕を掴む指にさらに力を込めた。
「それだけ?ここから落ちたら痛いだけじゃ済まないと思うんだけど」
「うん、でも落ちなかった」
「・・・そうだけど」
ピーターの言いたいことが、分かるようで、分からない。これ以上追求されても答えられない。だからリーマスは1歩下がって、階段のある方に靴を向けた。もう一度にこりと笑って、まだ何か言いたげに掴んだままのピーターの手をそっと外して逃れる。彼の手はふくふくとしていて柔らかく、子供の手のように暖かい。階段はこっち、と指差して確認してみせると、彼はやっと少し笑ってリーマスの隣に並んだ。
「今度から、階段を登る時には目を開けててよね!」
「そうだね、気を付けるよ」
軽い口調でピーターが笑うから、リーマスも笑いながらそう答えた。
うん、気を付けるよ。
下にいる人にぶつかったら大変だものね。
満月の前後は、神経が上手くかみ合っていない感じがする。中枢神経は布を被せられたように鈍く、末梢神経は過敏になりすぎる。こうして階段を登っていても、足を動かしているのは自分の意識ではないような気がする。階段を登ることそのものも、時にとても不自然なことに思える。
満月の前は主に精神的な理由から。
満月の後は主に肉体的な理由から。
理由は分かっている。ぼんやりしているように見えているという自覚もある。だからこそ、それを内側に留めておく努力は必要だ。外に漏らさないように。誰にも気付かれないように。そうやって笑顔を重ねることはもう彼にとっては嘘でさえ、なかった。
合い言葉を告げて寮の入り口を開けてもらい、2人が談話室のドアを抜けたとき、何かを叩き付けるような大きな音がした。歓談と笑声に満ちた部屋が一瞬にして静まりかえる。
びくりと身を竦ませたピーターを背後にかばう形で、リーマスは音のした方へ顔を向けた。部屋中の視線が注がれる中心でジェームズはソファに掛け、シリウスがその横に立ちジェームズを見下ろしていた。ぴたりと空気の流れが止まった部屋にまずシリウスの怒号が響いた。
「ふざけるな!」
「ふざけてるのはどっちだ?」
応じるジェームズの声は冷たい。彼の手は膝のあたりで何かを受け止めるように上を向き、側の壁際に分厚い本が無慈悲に打ち捨てられていた。ページのひしゃげかたで、シリウスがジェームズの本を取って壁に投げつけたことが分かる。ジェームズは無駄に上向けていた手で眼鏡のブリッジをくいと持ち上げ、シリウスを見上げた。
「殴るよ」
静かな宣言に込められた覇気に、ギャラリーさえ息を呑む。その中でシリウスだけは瞳に怒りとも憎しみとも取れる強い感情を燃やしてジェームズを睨み付けていた。拳を固めて一歩、シリウスが進み出る。
「待って!」
リーマスは慌てて駆け寄り、縋るようにシリウスの手を押しとどめた。シリウスの目はひたりとジェームズに向けられたまま動かない。振り返るとジェームズの顔に笑みはなく、瞳はただ冷たかった。いつもたたえられている穏やかな光はどこかへと消え、余裕も余白もなく、激昂もない。こんなふうに怒りを露わにするジェームズを、リーマスは見たことがなかった。
「ジェームズ、どうしたの?何があったの!?」
答えよりも助けを求めるような気持ちで問うが、ジェームズは答えない。隙を窺うような睨み合いのあと、シリウスがリーマスの手を力任せに振り解き、そのままリーマスの腕を掴んだ。強い瞳に睨み付けられて身体が竦む。シリウスは何かを言いかけ、しかしジェームズが彼の名を鋭く呼んでそれを止めた。彼は手を緩めて腕を放し、それから舌打ちをして大きなストライドで歩き去った。談話室の奥で高い音を立てて閉まったドアが彼の苛立ちを伝える。騒動を遠巻きに眺めていたギャラリーも、居心地の悪さにばらばらと散っていった。
ジェームズはソファの背もたれにどさりと身体を預けて足を組んだ。伏せた目は床を見ているのだろうけれど、眼鏡に隠れてよく見えない。
「・・・どうしたの。」
ゆっくり動いてジェームズの傍に立つ。ジェームズは顔を上げなかったから、リーマスは彼の髪に話しかけた。奔放に跳ねながらそれでも全体の均衡を失わない、やわらかな髪の流れ。色素の強い黒い髪。まるで彼自身のようだという思いつきがあまりに場違いで、リーマスはつい笑いそうになる。まっすぐなシリウスの髪も、頑ななまでにまっすぐな彼そのものじゃないか。ジェームズは目を伏せたまま、ふうっと息を吐いた。
「なんでもない」
呼気と一緒に吐き出された言葉。はぐらかす言葉を普段、彼は使わない。
「そう」
だから、もうそれ以上聞けなくなってしまった。
「放っておけ!」
少し足を引いただけのリーマスの動きを正確に読んで、ジェームズは珍しく語気を荒らげた。でも、とリーマスが異議を述べると彼はようやく顔を上げた。片手でがしがしと自分の髪を掻き回して、もう一度大きく息を吐く。
「僕が行く。少し苛々してるんだろう」
「・・・君もね」
言葉に出してみると、予想していたより心配の要素が多く滲んだ。それに気付いてかジェームズはふと苦笑を浮かべた。
「シリウスの考えてることは分かるんだ。気持ちも理解できる。でも賛同できない」
何についての話なのか、ジェームズは言わない。言わないと決めたことは、どんなに尋ねても彼は絶対に口を割らない。だからリーマスはただ頷く。
「多分シリウスも同じだよ。僕の考えてることは分かる。自分の考えが理解されてることも分かる。でもそれと、僕の考えを受け入れることは別の問題だ。そうだろう?」
再び、頷く。
「同じ目的のためにベストな方法を探してる。でも、僕らはどちらも辿り着けていないんだ。それは彼も分かってる。彼は力ずくで成し遂げようとした。僕はそれを力ずくで止めようとした。要するにそういうことだね」
ジェームズは小さく肩を竦めた。自嘲めいた仕草が彼にしては珍しい。
「止めてくれてありがとう。殴らずに済んだし、殴られずに済んだ。ピーター、驚かせてごめん」