サイレン
I Believe in You
「ちょっと、待って」
シリウスは引きずっている人間のことは構わずに自分のペースでどんどん歩く。自分のペース、といっても、彼の普段のペースに比べるとかなり早い。取られた腕が身体を支えているとはいえ、力の入らない足ではついていくのもつらい。
「そんなに、急がなくても」
息が上がって言葉が途切れる。かくんと膝が落ちるのを許さず、シリウスが身体を引き上げる。縋るように見つめたけれど、彼はリーマスに視線さえ向けず、じっと進行方向を睨み付けていた。
「ねえ、シリウスってば」
名を呼ばれてようやく彼は一度振り返った。ペースを緩めることはなかったが、振り返ったときの彼の表情が気にかかった。すぐに彼はまた前を向いてしまったから、それを問うことはできなかったけれど。
何かを耐えるような。
何かを堪えるような。
なにを?
意味が分からずにリーマスは、ただ、待ってと繰り返す。
何度目かに膝が落ちたとき、リーマスの腕がするりと抜けた。支えを失ってぺたりと座り込み、床に手をついて深く呼吸する。揺れる視界のせいで吐き気がした。もうただじっとしていたかった。そこが、冷たく固い廊下の端でも。
「なあ」
声が降る。わずかに苛立ちを滲ませた、静かな声。怖い、と反射的に思う。
「なあ」
答えずにいるとシリウスはリーマスの傍に膝をついた。
「・・・なんで、あんなとこにいたんだ?」
呼吸を整えて、リーマスは口を開く。
「良い天気だなあと思って、窓に寄ったら、気持ちよくて」
セブルスに答えたものと同じ。いっそ言えたらどんなに楽だろう。朝陽には闇を破る力があるらしいから浴びていたかったんだと。冷たいガラスで指に残る感触を消したかったんだと。結局どちらも叶わなかったんだ、と。
「なあ」
「なあに?」
「・・・あんなのと、口利くなよ」
あんなの、と呼ばれたものがセブルスのことだと気付いて、リーマスは小さく笑う。強い口調できっぱりと話す彼の常にない、懇願するような響き。
「僕はセブルスのことそんなに嫌いじゃないんだ」
「そんなふうに呼ぶなよ、気持ち悪い」
「そうかな」
「なあ」
何度目かの、呼びかけ。彼は婉曲とか遠慮とかそういうものにとにかく縁がない。態度から察して欲しいと意味ありげに行動することもない。思うとおりに動き、思うとおりに話す。その彼が何かを中心にした円の上を歩くように言葉を選んでいる。その意味から、リーマスは目を逸らした。最悪の想定が全身を巡って背筋が冷える。けれどどうせ失うのなら、その瞬間までここにいたい。そして叶うなら、できるだけ長く。そのための嘘ならいくらでも用意できる。前傾する身体を支える腕。指先が、床を引っ掻く。
「なあに?」
できるだけ柔らかい口調を心掛けて、顔を伏せたまま答える。顔にかかる髪が掬い上げられて不意に視界が開けた。つられるように顔を上げると、覗き込むシリウスの瞳があった。
綺麗な瞳だ。
引き込まれるように、リーマスはそれを見つめた。深いところから強い光を放つ、綺麗な色の瞳。見つめながら、けれどきっと、とリーマスは思う。
この瞳はきっと、僕を許さない。
割れた爪や新しい傷を見逃してはくれないように、この瞳は僕を暴く。
「なあ」
また呼びかけられて、リーマスは彼を見上げたまま笑む。なあに?と同じように答える。吐き気は治まり呼吸も落ち着いていたから、微笑むことはさほどつらくない。シリウスは顔を曇らせてリーマスを見つめていた。怒っているようにも、泣きだしそうにも見える。君らしくないと言いかけて、やめた。
「・・・なあ」
暖かいてのひら、奔放な髪、幽かな笑み。そしてこの綺麗な瞳。その傍に在りたいと思う。けれど近付くほど、狭く危うくなる己の足場。いまさら、すべて失うことは耐えられそうにない。耐えられそうに、ない、けれど。
「なあに、ってば」
だからリーマスは笑う。シリウスの瞳の前に精一杯の嘘を。
この愛おしい光は同時に、彼からすべてを奪う力。大好き。だから。
大嫌い。
近付きすぎないように細心の注意を払ってきた。けれど優しい手を知ってしまえば、触れられたくないと思いながら振り払うことはできなかった。ここは異国で自分は異端なのだと繰り返して塞ぐこころ。凶器を両腕に抱きしめてもろともに深いところへ沈めて。僕は弱いんだ、とリーマスは思う。手放すことも、受け入れることもできない。そのくせ、失うことは怖い。嘘で作った壁の中で微笑むばかりだ。リーマスはシリウスの瞳を見つめ返す。彼はこの瞳で何を見ているのだろう。強い感情を内包してぴたりと照準を合わせてくる瞳。深くて、怖い。けれどなんて、きれい。───そう思ってリーマスは慄然とした。
ああ、僕は。
いつのまに、こんなに。
「シリウス?」
小さな嚥下を気取られないように首を少し傾げて名を呼ぶと、突然シリウスはぎゅっと目を閉じてぶんぶんと頭を振った。黒い髪がぱっと散る。驚いたリーマスが思わず声をあげるとシリウスは頭を振るのを止め、代わりにぐちゃぐちゃと自分の髪を掻き回した。どうしたのとリーマスの問いかけが終わる前にシリウスは両手を伸ばし、リーマスの髪を同じようにぐちゃぐちゃと乱した。
「わ、なに!?」
「うるさい!」
訳も分からないまま一喝されてしまった。ぎゅうと頭を抑えられてシリウスの顔を見ることもできない。力任せにがしがしとシリウスの手が髪を掻き回す。
「うるさい!ったくふらふらほっつき歩きやがって、探す方の身にもなれ!」
「ご、ごめん」
「ごめんじゃねえ!お前は謝るばっかで全然反省してねーだろ!」
「ごめんってば」
「反省したか!?」
「した、しました」
「よし!」
最後にぺちんとリーマスの頭をはたいて、シリウスは手を引いた。シリウスが一度頭を振れば黒い髪はすんなりと元の位置に収まった。リーマスが顔の前で不自然に揺れる鳶色の髪を不満げにつまむと、シリウスは楽しそうに笑ってざかざかとリーマスの髪を梳いた。
「完璧」
「・・・ほんとに?」
「さっきよりこっちの方が良いくらいだ」
そう言って笑う顔には先刻までの、あの耐えるような迷うような色はない。シリウスは立ち上がり、それからリーマスの腕を掴んで引き上げた。立てるかとも、大丈夫かとも聞かなかった。相変わらず身体は重く、思考の動きは鈍い。ただ、掴まれた腕に今は痛みはない。彼らに心配をかけないということは、より多くの嘘を重ねるということだろうか?分からない。
鐘の音が響く。今日も正しく1日が始まる。隣で綺麗な目をした友人が、次の授業はつまらないだの、あの教師との決闘なら俺が勝てるだのと笑いながら話している。進行方向にまっすぐに向ける、その力強い笑み。永遠には続かない時間をそれでも望む自分を愚かだと思う。あんま心配かけんな、と髪を掻き回しながら彼が小さく落とした言葉を。
だからリーマスは聞かなかったことにした。
(2006.10.10)