囚われ
「……ベルゼブブさん」
少し沈黙があってから、佐隈の声がした。
「私を見てください」
さっきのような強さはない、少し弱々しい声だった。
ベルゼブブは佐隈の顔を見た。
眼が合う。
黒い瞳が揺れた。
そこから読み取れるのは、緊張、そして、おびえ。
しかし、そらされかけた眼は、ふたたびベルゼブブのほうにもどってくる。
ベルゼブブをじっと見ている。
その唇が動く。
「私は、ここに、います」
かすかな声で、ベルゼブブに告げた。
言われたことの意味がわからなかった。
だから、ベルゼブブは考える。
ここにいる。
今の状況そのままだ。特に言うことではないはずだ。
いや、今の状態をそのまま言っただけではないとしたら……?
ここにいる。
たしかに、佐隈はここにいる。
ベルゼブブのそばにいる。
ああ。
そういうことか。
ベルゼブブは理解した。
いや、それは希望的観測かもしれない。
その推測が正しいのかたしかめたくて、いや、ただ単に心が望むままに、ベルゼブブは手を伸ばす。
佐隈は動かずにいる。
その頬に触れる。
だが、佐隈は身体を少し揺らしたものの、ベルゼブブの手から逃れようとはしない。
ベルゼブブは佐隈のほうに身を寄せていく。
たがいの顔が近くなる。
佐隈は眼をそらした。
けれども、やはり、そこにいる。
近づいてくるのがわかっていて、避けようとはせず、そこにいる。
もう、呼吸や温もりを感じる距離だ。
ベルゼブブは佐隈の唇に自分のそれを押しつける。
佐隈の身体がビクッと震えた。しかし、佐隈は逃げない。
初めて、その唇に触れた。
ずっと触れたかった。ずっと、こうしたかった。
気分が高揚する。
唇から離れ、けれども、また、唇を重ねる。
もっと触れたい。欲望がわきあがり、抑えることができなくて、身体が動く。
深く口づける。
しばらくして、少し離れた。
近くから佐隈の顔を見おろす。
恥ずかしそうにそらされていた眼が、ふと、ベルゼブブのほうに向けられた。
その眼も熱を帯びているように見える。
感情が身体を支配する。
言葉となって、口から出ていく。
「さくまさん、私はあなたを愛しています」
私は行けないから行かないんじゃない。
行かないと思っているから、行かない。
どこにも行かない。
私は、ここに、いる。