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てのひらの温度【正帝】

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これは読みやすくするために改行しています。

「てのひらの温度」から冒頭抜粋




 嫌な噂が流れた。噂は人の心を蝕む。
 本当か嘘かなど関係せずに疑惑が心当たりのある者を殺すのだ。
 形のない悪意。それに押し潰される人間を正臣は何人も見てきた。
 自分にもその魔の手が差し迫ることはあったが寸前で止まる。
 まるで相手を変えるように正臣の目の前で方向転換したのだ。
 どうしてだろう。未だに分からない。

『幸せになれないタイプだよね』

 そう苦笑した大人の女性の言葉は正しかった。
 彼女はどこまでも優しくそして他人行儀に正臣を受け入れた。
 正臣がどんな人間であるのか知っている上で肌を重ね合う。
 別に一時の慰めの触れ合い、お互い割り切った関係に不満なんかなかった。
 病室に残した彼女を振り払うために生き続けるような日々を憐れんでくれる優しさに甘えるのは男して最低だった。
 何も考えずに生きれるほど頭をからっぽには出来ない。
 愛とか恋とかどうでもいいと思えるようになれたのならもう少し正臣は幸せに近くなれた筈。
 どうでもいいと思えるようになるまで自分を酷使するような事にならなかった。
 擦り切れて何も感じられないようになればいいと願っていた。
 その懺悔が誰かの慰めになればいいと信じるように。
 貧乏性、苦労性、マゾヒスト。
 色々と言われたが正臣は笑って否定しない。
 そんなことはないと言い切れない。

『呪縛が解けて良かったね? それとも、君はその重苦しい鎖がないと息が出来ないのかな?』

 黒いコートをなびかせて人の形をした悪意が正臣に語りかけてきた。
 正臣は何も知らない。だが、何かが起こったことだけは分かった。
 楽しそうに、楽しそうに、語りかけてくる男が何を知っているのか正臣は知らない。
 知りたくなかった。目を瞑って、耳を塞いで、全速力で逃げ去りたい。
 優しい女性をナンパして部屋に止めてもらう算段を脳内で取り付ける。息をすることすらも苦しいこんな場所から逃げ出したかった。
 もう何も見ることもなく知ることもなく優しい温もりに甘えていたい。
 嘘ばかりだ。
 そんなことはもう思っていない。
 正臣はもう決めていた。
 何と何を天秤に掛けたのか。
 決まってる。
 目の前にいる相手だ。
 誰とも比べることが出来ない相手。
 何と比べようとしても天秤は釣り合わない。
 偏って、傾いたままだ。
 だから、天秤にかけるのをやめる。逃げる思考を止める。
 苦しんでいるふりをするのをやめる。歩みを止める。
 今ある温もりが全てだというように心を止める。
 世界が終わることを祈る幼さを正臣は捨てられない。
 何事もなかったかのように日々を過ごすことが出来ればどんなに幸せか。
 苦しみ喘ぐのが専売特許だとでもいうのか。
 人生は常に苛酷だ。
 ほんの少しの温もりが欲しかったのだと言って誰が信じてくれるだろう。
 ただ少しの愛に触れたかっただけだと言って誰が信じてくれるだろう。
 もう少し早く素直になるべきだったのか、どんな後悔も正臣には遠い。


作品名:てのひらの温度【正帝】 作家名:浬@