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てのひらの温度【正帝】

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『やぁ、おはよう。竜ヶ峰帝人君。嫌がっても望んでも、ここが君の世界だよ。何かが必要なら俺の所に来るといい』

 あははは、と嘲笑を上げて正臣の腕の中で目を覚ました帝人の手を握る。
 何を言われているのか、分からない顔をしている帝人を守るように正臣は強く抱きしめた。
 口を開こうとして失敗する帝人に正臣は込み上げる嗚咽を飲み込む。
「薬の影響で忘れちゃったのかな? つまんないの」とコートのポケットに手を入れて男はスキップしながら消えた。信じられない神経だった。
 ゆっくりと正臣の名前を呼ぶようになった帝人をおぶって醜悪な密室から出ることにした。
 ここに来ることなど永遠にない。
 絶対にない。忘れてしまえばいい。
 自分にも帝人にも残ってはいけない。
 ドロドロとぬかるんだ泥に帝人は存在していた。苦しくて悲しい底なし沼。
 正臣もまたその中に落ちてしまった。
 そのことを二人して悔やんでいくのだろう。
 これからの世界に未来などない。
 確かな現実というものは最低最悪の光景なのだ。
 いつだって痛みの針が足に突き刺さる。だからこそ、温もりを求めたのにこうしてより深く身体中を貫かれる結果になる。
 苦しかった。
 吹く風の冷たさに震えて正臣はここに来る時に一言、男から告げられた言葉を思い出す。

『世界は優しくないね。だかこそ、こんなに美しい』

 理解できないことだった。
 理解などしたくないことだった。
 吐き気がするほど気持ちが悪い。
 吐き気が収まっても気持ちが悪い。
 続いていくのだと思った。
 こんな苦しみがずっと続くのだ。

『ま、さおみ、っ』

 帝人が正臣の顔に手をやってくる。
 目隠しに危ないと首を振る。帝人の指先が濡れていた。違う。
 濡らしたのは正臣だ。自分がどんな顔をしているかなど見たくもなかった。触れられたくない。自分を呼ぶ帝人の声がいつもと違って聞こえる。
『君はより傷ついている方を取るんだろ?』

 その言葉に正臣は違うとは言えなかった。
 自分のズルさに吐き気がした。選べなかったことを責められている気がした。
 時間が解決してくれるものとどうにもならないものもある。
 どうにもできないものがある。
 泣いている正臣の目を隠す帝人を投げ捨てれば心は軽くなるのだろうか。
 そんなはずがなかった。
 もっと重苦しい後悔だけが心を占めるはずだ。
 誰も正臣を許せない。どこにも悪いところなどないから。
 たまたま友人が不幸にあった。
 それだけの話なのだ。
 正臣に何の責任もない。誰も責めることはない。
 分かっていても吐き気が止まらないのだ。
 もっと早く決断をすればよかった。
 いや、決断はずっと前からしていた。
 見ないふりをし続けていただけだ。
 痛みが血を流しながら襲い掛かる。

 自分が傷つくのは平気。
 自分の痛みだから。自分の責任だから。
 大切な人が傷つくのは辛い。
 自分の痛みだから。自分の世界が歪むから。
 突きつけられる自己の在り方。
 結局は自分のことばかりなのだ。
 結局は自分の目に映る世界だけを守りたいのだ。
 それの何が悪いのか分からない。
 明日など見ない子供には今日しかなかった。
 我武者羅に目の前のものを必死で抱き寄せることが生きる目的だった。
 こんな歪さを許せるものじゃない。こんな痛みを抱えてなどいられない。

『まさおみ』

 自己と他者の境界が崩れる。どうしてこうなってしまったのかという気持ちを帝人に押しつける。
 自分が何をしているのか分からなくなる。
 帝人を責めているのか帝人に責められたいのか正臣は分からない。
 責任がないと言われれば言われるほど正臣の中で暗く濁っていくものがある。
 責任が欲しいのだ。
 責めて傷つけてそして蕩けるほどに優しくして欲しい。
 逃げ場を求めている気持ちを捨てきれない。
 人肌の心地よさを正臣は知っていた。

『まさおみ』

 背中の帝人の温度にこみあげてくるものをすでに隠し通せない。
 号泣する正臣に帝人は先程から変わらない声で正臣を呼び続ける。
 真っ白に染まった心を正臣に見せてくれる。
 残酷なのは誰だろうか。苦しくて悲しくなる。痛みが激しくなっていく。

『まさおみ』

 帝人にどんなことがあったとしても正臣はやはり昔のような幸せを求めてしまう。
 自分本位で勝手すぎたとしても幸せが欲しいと心が叫ぶ。止めようがない。
 それが例えば束の間でも正臣は幸せが欲しかった。
 その身勝手さに吐き気をもようしたりしても変わらずに求めてしまう。
 幸せの形など知らない。欲しいものは温もりだ。
 確かに自分の手の中にあったもの。いつの間にか零れ落ちてしまったもの。

「好きだよ」

 嘘でも嘘じゃなかったとしても必要な温もり。
 苦しみを和らげる薬。間違っているのかもしれない治療。
 愛しいと言い続けるためだけの期間。
 痛みのない声。苦しみのない日々。

「好きだよ、正臣」

 手と手が重なり合う時に生まれる温かさ。
 涙が出るほど幸せな時間と温もり。
 目を閉じて未来を見ないで過去にも触れず、今日だけ生きていく幼さで進む。

「俺も帝人のこと好きだ」

 ささやかなもので構わない。美しくなくて構わない。
 今日だけを生きていく日常の中で二人は手を繋いで歩く。


作品名:てのひらの温度【正帝】 作家名:浬@