二次創作小説やBL小説が読める!投稿できる!二次小説投稿コミュニティ!

オリジナル小説 https://novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
二次創作小説投稿サイト「2.novelist.jp」

アスモデウスの蜜壷

INDEX|1ページ/5ページ|

次のページ
 
アスモデウスの蜜壷



部屋の中には、油絵の具の強い匂いが残っている。
「菊、もうちょい右向いてくれへん?」
そう言われて、本田菊は言われるがままに顔を動かした。
すると、「おおきに」とこちらを見ない顔が言う。その手はひたすらに、カンバスの上を動いて澱みがない。
二人のいる部屋は、アントーニョの自宅の隣りにあるアトリエだった。
いつものように呼び出された菊は、ソファに座ってポーズを取り、ひたすらに時が過ぎるのを待っている。
モデルをする際は、裸の時もあれば衣服を着ているときもあって様々だが、最近はずっと彼に乞われて、郷里から取り寄せた浴衣を身につけていた。
なんでも、”東洋人”の菊を描きたいのだそうだ。
主人たるアントーニョが嫌がるので、部屋の中には時計もなく、どのくらいの時が過ぎているのかは分からないが、差し込む日の光はだんだんと黄色くなっているようだった。
アントーニョは気まぐれで、最中も饒舌な時もあれば、本当に一言も話さないときもあるので、菊はそれに合わせるようにしている。
何もせずに座っていることが最初は退屈だったけれど、何度もこなしているうちに馴れた。
段階次第ではあるが、ポーズが崩れないならずっと目を閉じていたりしても問題はないようなので、最近は姿勢を崩さないままでリラックスする術も覚えた。
「なあ、菊、」
「はい?」
相変わらずこちらを見ないままで、アントーニョが口を開いた。
普段はのんびりとして大らかで、物事にあまり頓着もなさそうなのに、こうして絵を描く時だけ彼はとても真剣になる。
驚くほどに集中し、食事すらろくに摂らない事もざらにあるようだ。
「悪いけど夜まで居れるか?」
つまり、夜までこうしていてほしいということだ。
問いかけに、菊はいつもの通りに「ええ、いいですよ」と言った。
モデルとして呼び出されても、ようは彼の筆の乗り次第なので、時間は昼までだったり、夜中までだったりと日によってまちまちだ。
同じように芸術を志す菊にはよく分かる事だったから、あらかじめ予定は一切入れていないし、もちろんバイト料も上乗せされる。
「ほんま? 助かるわ、おおきに!」
彼はカンバスから顔を覗かせると、にこっと実に嬉しそうに笑う。
どこか少年のままの無邪気な表情を向けられると、菊もつられて嬉しくなってしまうのだった。
なにより彼の才能に少しでも貢献できるなら、それは菊にとって喜びに他ならなかった。


**


「おいアントーニョ!」
アトリエのドアが唐突に開かれ、何度か聞き覚えのある声が彼を呼んだ。
菊がそちらを向くと、若い男が馴れた様子で中へと入って来る。
高級ブランドのスーツに、柄のシャツ、タイはせずに胸元までボタンを開けている。
磨き上げられた靴も高級ブランドの品だし、腕に付けている高級腕時計やアクセサリーは、ややもすれば嫌味に見えそうなのに、見事にそれが似合う文句無しの美男だ。
「あ、ロヴィーノくん」
「よう、菊」
彼は名前を呼んだ菊ににっと笑ってみせると、その前に座るアントーニョへと視線を移した。
呼ばれたアントーニョ自身は気がついていないのか、一瞥する様子すらなく、ただひたすらにカンバスに向かって腕を動かしている。
「おい、アントーニョ!」
ロヴィーノがもう一度呼んだ。だが彼が気づいた様子はない。
どうやら、今日はいつにも増して集中しているらしい。
「…ふぅん」
そんなアントーニョの様子を見たロヴィーノは一度目を見張ると、次ににやりと満足げな顔で笑った。
それからソファの方へ歩み寄ってくると、持っていた紙袋を菊の膝へ置く。
「これ、差し入れ」
「え、あ…いつもありがとうございます」
菊が見上げると、ロヴィーノは満足げに口の端を上げた。
このロヴィーノという青年は画商の息子で、彼の絵の買い付けを任されているらしい。
おそらく、今日もそのために来たのだろう。
自分の事を気に入ってくれているのか、それともアントーニョへの遠回しな気遣いなのか、彼はここへ来るとこうして必ず何か差し入れをくれる。
「そこのケーキはすげー美味いから、アントーニョにはやらなくていいぞ」
菊が返事の代わりに小さく声を出して笑うと、ロヴィーノはアトリエの隅に置いてある完成済みの絵へと視線を向けた。
そして、そちらへと歩み寄っていくと、一枚一枚を熱心に見つめたのちにその何枚かを外へ運び出し始める。
ロヴィーノの手で運ばれて行く絵は、どれも鮮やかな色彩が目を引く、個性的で言葉にできないほど素晴らしいものばかりだ。
もちろん、そう感じるのは菊だけではないようで、アントーニョは今や期待の若手として、画壇でも一角の地位を築き始めている。
最近では、絵もそこそこの値段で取引されるようになっているようだ。
しばらくして全て運び終えたのか、ロヴィーノが入り口でもう一度菊を呼んだ。
「菊、コイツに俺が絵を持ってったって伝えといてくれ」
「わかりました」
「あんまり長い時間モデルさせられるようなら、そのバカぶん殴ってでも「休ませろ」って言えよ!」
「はい、ありがとうございます」
菊が微笑むと、ロヴィーノは満足げに笑って手を振り、「またな」と言って去っていく。
初めてここにモデルとして来た時から、この青年は菊に親切にしてくれる。
いささか口調が乱暴で、出で立ちとも相まって最初は戸惑いも多かったが、そのうちに彼はただ不器用なだけなのだと気づいてからは、菊も警戒を解いていった。
彼が最初の時にくれた忠告を思い出し、菊は申し訳ないという気持ちで彼の去って行った戸の向こうを見つめた。


作品名:アスモデウスの蜜壷 作家名:青乃まち