アスモデウスの蜜壷
菊がアントーニョと出会ってから、もう3年余になるだろうか。
芸術を学びたくてこの国へ来たのはいいものの、才能の世界というのは実にシビアだ。
どうしようもなく行き詰まってしまい、途方に暮れて、ふと目に入った美術館へ引き寄せられるように入った。そんな時だった。
”なあ、君、モデルって興味あらへん?”
彼は菊にそう言って声を掛けてきた。
最初はまさか女性と間違われているのかと思ってそう言ったが、彼は笑って、男のモデルが欲しいのだと言った。
ともかく、お互い気が合うのか関係は良好で、菊はそれ以来こうしてモデルをしに彼の家を尋ねたり、展示会があればその手伝いもするし、彼が使わないときはアトリエを貸してもらったりもする。
彼が自分のどこを気に入ったのかは今でも不思議だが、以前、アントーニョが「女は飽きた」と冗談めかして言っていた事があるから、たまには変わったものを題材に描いてみたいのだろう。
澱みなく筆を動かすアントーニョの顔を、菊はこっそりと目だけを動かして盗み見る。
(もしくは、)
たまには変わったものを相手にしたいのかもしれない。
「きく、菊」
肩を揺すられて、菊はふっと目を開けた。
見上げると、アントーニョがこちらを覗き込んでいる。少し困ったような顔で緑色の目が見つめていた。
「…あ」
気がつくと、窓の外はもう暗闇だった。どうやら自分はソファに上体を凭れさせた格好のまま、知らぬうちに眠っていたらしい。
「すみません、眠ってしまったんですね」
恥ずかしさを覚えて菊が身体を起こそうとすると、それより早く、アントーニョがソファに乗り上げて来る。
「ええよ、むしろ疲れてたんに無理させてしもて、ごめんな」
そう言いながら、身体に覆いかぶさるようにされて、菊はそのままソファへ身を横たえた。
ぎしりとソファが二人の重みで軋んだ音を立てる。
先ほど絵筆を握っていた指が、菊の黒い髪をそっと漉いて、額に口づけが降ってくる。
「…そんなことを言いながら、もっと疲れることをさせるんですか?」
戯れのつもりで皮肉気に言うと、アントーニョは緑色の瞳を一瞬瞬かせ、それから口の端を上げた。
「はは、つれないなあ。ええやん、菊も気持ちいいの好きやろ?」