アスモデウスの蜜壷
アントーニョの家の周りは、麦畑がどこまでも広がっている田園地帯だ。
その小道を歩き、やがて川縁の土手にたどり着くと、彼はそこへ座り込んだので、菊もそれに習う。
「悪かったな、変なもん見せてしもて。びっくりしたやろ」
妻と愛人が争っているというのに、しかも原因は自分の不貞であるというのに、驚く程冷めきった顔のアントーニョは困った様子で菊の顔を見た。
「堪忍したって」
「はあ…大丈夫なんですか」
菊が生返事を返すと、アントーニョは苦笑いして菊の肩を抱いた。
「心配してくれるん? 優しいなあ菊は」
心配というものでもなかったけれど、自分を好意的に見てくれているものを否定する気にもなれず、菊はただ、隣りの男の顔を見遣るだけに止める。
すると、アントーニョは一つだけため息を吐いた。
「あいつら、どっちも別に好きな奴おるようやし、もうええやろ」
ぽつんと言って、菊の肩へ腕を回す。
「え…そうなんですか」
深く踏み込むのは躊躇われたけれど、堪えきれず問い返すと、アントーニョは困ったように笑った。
「そうやで。奥さんは本社の近くに若い愛人囲っとるようやし、あの子もそうや」
「そ…うなんですか」
「うん」
一般人というのか、庶民である自分には全く想像もできないような話に、菊にはそんな相づちを返すのが精一杯だった。
アントーニョはそんな菊の顔を見て、少しだけ表情を緩めた。
そして、菊の頬に口づけを落とす。
「俺はもう、菊だけおればええわ」
耳元でそんな風に言われ、菊は途端に広がる昏い悦びに震え出しそうだった。
あんなに美しく、かつ才能も兼ね備えた、男なら誰もが欲するような女二人をさし置いて、彼は自分と家を出てきたのだ。
いけないと思いながらも、そうやって自分に優位な見方で事態を受け止めると、今まで押し込めていた優越感とも歓喜ともつかないものが押さえきれずに噴き出してくる。
アントーニョが、3人の中から菊を選んだという訳ではない。
自分はただあそこに偶然いただけにすぎない、と頭では分かっているし、頭の隅で冷静な己が「明日は我が身」と警鐘を鳴らしているのにも気づいている。
なにより、決して彼は自分だけのものにはならないと知っているのに、それでも嫌いになるどころか、増々のめり込んでいく自分がいるのをどうにもできなかった。
かさついた指で頬を撫でられ、アントーニョの顔が近づく。
菊はアントーニョの唇に指を伸ばした。
不思議そうな顔に苦笑いして、「口紅、ついてますよ」と言ってやる。
「え、ほんま? おおきに」
アントーニョは少し目を瞬かせて、無造作にその赤を手の甲でぬぐい去った。
ロヴィーノの忠告の意味を、できればもう少し早く知りたかったと今更ながらに思う。
だが気づいて後悔しても、もう後の祭りだと菊自身が一番良くわかっていた。
どんなに頭で考えていても、いつもこの熱っぽい緑色の目で見つめられるだけで、全てがどうでもよくなってしまう。
理性など、色欲の前では驚く程に無力だ。
あるいはもしかしたら、すでに自分は彼の毒に侵されて、感覚がおかしくなってしまったのかもしれない。
きっといつか自分はこの男に貪り尽くされて、ある日突然、冷酷な仕打ちの果てに捨てられてしまうのだろう。
分かっていても離れられない自分にどこか絶望しながら、菊はその腕の甘さに身を委ねた。
彼のもたらす毒のような極上の蜜は、そんな恐怖すらも麻痺させてしまうくらいに甘美だった。