アスモデウスの蜜壷
菊が次にアントーニョに呼ばれたのは、1週間ほどしたある昼下がりのことだった。
いつもの通りにバスを下りて田舎道を少し歩くと、草地がどこまでも続く小高い丘の上に、白とクリーム色の二棟の建物が見えてくる。
アントーニョの自宅とアトリエだ。
自分を呼ぶ場合、十中八九彼はアトリエにいるので、今日もそうだろうと検討をつけて白い色の建物へと足を伸ばす。
木の扉を開けて中へと入り、いつもの通りに家主へ挨拶しようと顔を上げて、菊はその場に凍り付いた。
光がわずかに差し込むやや薄暗い部屋の、奥のソファで、二人の男女が抱き合って深い口づけを交わしていたからだ。
濃密な空気の中で絡む二人の間からは、女のか細い声や密やかな吐息、どこか獣めいた息づかいが漏れてくる。
言うまでもなく、男はアントーニョその人であり、女の方にも見覚えがあった。
菊が来る前からここに出入りしていた、アントーニョの愛人だ。
最近売れ始めた女優で、テレビドラマや映画にも時々出演している。
アントーニョの絵のモデルも何度もしているようだ。
二人は菊のことなど全く気づかない様子で、お互いを貪りあっているようだった。
金の髪や細い腕が彼の背へ絡み付く。
カッと頭の奥が焼けるように熱くなる一方で、妙に冷静な部分もあって、思うように動かない身体を持て余した菊は、とにかくここを出ようと逃げるように足を動かした。
ふらふらともつれる足でなんとか後ろへ下がろうとすると、背中が誰かの肩とぶつかった。
「あら、どうしたの菊」
後ろからした親しげな声は、女のものだった。
菊の身体を支えるようにした手は柔らかく、官能的な香水の匂いが鼻を掠める。
菊が思わず振り返るのと同時に、それまで遮っていたものがなくなった彼女は、中の光景を目の当たりにしたらしい。
さっと顔色を変えると、菊を半ば押しのけるようにして彼女は中へ入っていく。そして、物凄い勢いで怒鳴り始めた。
「ちょっとアントーニョ!?なんなのこの女は!!」
「は!?あなたこそなんなのよ!」
「私はこの人の妻よ!」
「ああ、普段全然家に寄り付かないで旦那をほったらかしにしてるオクサマ?まだいたの?もうとっくに離婚したのかと思ったわ!」
「あなたみたいに暇じゃないだけよ!」
アントーニョの妻である彼女は、会社の社長だと聞いた。
やり手なのか、最近はかなり多忙で、本社のある街で寝起きする事が多く、こちらへ帰ってくるのも月に1、2度程度らしい。
長い髪を纏め上げたブルネットの知的な美女である。
年齢はアントーニョより少し年上だろうか。
ブランドものの服で包まれた肢体は肉感的で、目の前の女優と少しも引けを取らない。
一方、美女二人に挟まれているアントーニョは、乱れた服のまま呆然とした顔でそれを見ているのみだった。
口に赤い口紅がこびり付いているのがひどく生々しい。
「アントーニョ、どういうつもりなの!別れたって言ったじゃないの!許さないわよ!」
妻がアントーニョの胸ぐらを掴む。
まるで、自分の所有物であるのを誇示するような乱暴な仕草だった。
いや、事実彼女は「妻」なのだから、実際そうなのだろう。
途端に胸を刺すようなたまらない嫉妬心が芽生えて、菊は内心でそんな自分を鼻で笑い飛ばした。
間違っても、自分はそんな気分を味わうような身分ではない。
彼女らのように美しくもなければキャリアもないし、そもそも、自分は女ではなく、柔らかな胸やふくよかな腰もない、ただの貧弱な男でしかない。
「ちょっと、乱暴にしないで!彼に触らないでよ!」
女優が妻を突き飛ばすようにすると、二人はアントーニョを挟んでにらみ合った。
それこそすぐに戦争でも始めそうな程殺気だっている女二人を両隣に、アントーニョは少し苛立ったように頭を掻く。
「もう我慢できないわ!さっさとここで別れなさいよ!」
「はあ?!何で別れないといけないのよ!ね!アントーニョだって別れたくないわよね!」
「あんたには聞いてないわよ!アントーニョ、あなた一体どっちを選ぶの!妻と愛人とどっち!」
両方からそれぞれ腕を引き、自分を挟んで火花を散らす二人にうんざりとした顔で、アントーニョは「あー」と間延びした声を上げた。
「戦って決めればええんと違う…?」
そんな悠長な場合でもない気もしたが、彼は一体どういう風にこの場を収めるのだろうかと見ていた菊は、思わず自分の耳を疑って眉根を寄せた。
戦うって、どういうことだろう。
さすがにそのままの意味では原始的すぎないかと女達を見遣ると、意外なことに彼女達は彼の言葉に怒るでもなく、それどころか疑ってすらいないようだった。
「勝ったら離婚してくれるのね!?」
「ちょっと!私が負ける訳ないでしょう!」
先に平手打ちをしたのは女優の方だった。叩かれた妻は頬を押さえることもせず、すぐに相手の頬を引っぱたく。
「~~~ッやったわね!!」
仁王立ちになった彼女達は、美しい服も化粧も忘れた様子で、お互いにものすごい勢いで掴み掛かった。
綺麗に磨かれ、マニキュアで彩られた長い爪で引っ掻き、美しく手入れされた髪を引っ張り合い、磨かれた高いヒールの靴で蹴り合っている。
この国の女達は情熱的なのだと聞いていたし、実際積極的なタイプが多いと感じてはいたが、ここまでとは思わなかった。
これはもう愛というより、凄まじい執念と表現すべきではなかろうか。
故郷の女達も時折強かではあったが、さすがにここまでではなかったように思う。
いや、それとも見せなかっただけで、女というものは皆どこかにこういう本性を隠しているものなのだろうか。
「…あー、来てたん、菊」
もみ合う二人の悲鳴のような声や、唸るような低い声が、非常に生々しく恐ろしい。
目の前の光景を直視できず、けれど見て見ぬ振りをして出て行くのも憚られて、菊が入り口で呆然としていると、いつの間にか隣りにアントーニョが立っていた。
「今日は外で描くで。行こ」
手にはいつの間にかスケッチブックや画材が握られていて、その反対の手で彼は菊の手を掴む。
「え、いいんですか、あれ…」
問いかける菊の手を無言で引いて、アントーニョは外へと出ていった。