子猫さんの憂鬱
「お、子猫元気やったか?」
答える前に志摩家の次男、柔造が軽々と自分を持ち上げて『高い高い』をする。
確かにまだ平均より背が小さい。ヒドイ時には学生証が無いと、未だに中学に上がったばかりの歳と勘違いされてしまうこともある。しかしこれでも春から高校生だ。いつまでも小さな子供扱いされるなど、男の沽券に関わる。
そうは思っても、目の前の男はいくら抗議しても辞めてくれないのだから、どうしようもない。
「昨日も寄せて貰うてますよ、柔造さん」
「なんや、少しは喜びや」
柔造が三輪子猫丸を下ろしながら、口を尖らせる。
志摩家の廊下で、早く床に足が付かないかなぁ、とバタつかせて自分はなにをしているのか。ちょっと悲しくなる。
「僕もう高校生…っ!」
下ろすと油断させて、ダメ押しの『高い高い』を食らう。
背が小さいとは言え、これでも少しは鍛えている。同じ背丈の平均的な女性よりも重いはずだ。それを軽々と持ち上げてしまう柔造はどれだけ力持ちなのか。
そんな憧れの存在の、自分への扱いが恨めしい。
「ちょ、柔造さん!ホンマ堪忍ですわ」
女にモテる癖に、子供が大好きだと言う兄代わりの男は、子猫丸を高い高いすることの何が嬉しいのか、もの凄く嬉しそうな顔をしている。彼の後ろに居た、宝生蝮が呆れたような顔で子猫丸と柔造を見つめていた。
やっとのことで床に足を着けた子猫丸は、柔造に頭を撫でられる。
本気で僕を子供扱いしてはるなぁ…。
早くに両親を亡くし、志摩と宝生、そして明陀宗の座主である勝呂家の面々に親代わり、兄弟代わりをして貰って育った子猫丸は、歳に似合わず考え方が冷静で大人びている。三輪の家を継がなくてはならないと言う気持ちがそうさせるのかも知れない。
あんまり気負うな、言う柔造さんの気配りやろか。
柔造の顔を見て子猫丸は自分の見解を撤回した。
どう見ても楽しんではるわ…。
こんな時に、もっと背が欲しいと思わずには居られなかった。
「で、今日はどないしたんや?」
ぐりぐりと頭を撫でたままだ。
「志摩さんに参考書を貸して欲しいて頼まれたんですわ」
「ほうか、そらご苦労さんやったなぁ。あのあほぅ、まだ帰っとらへんで」
それは子猫丸もよく知っている。帰りがけに下級生の女の子たちと話していたのを見かけたからだ。
「ほなら、僕これ置いて帰りますわ」
「まぁ、そない言わんと、ぶうでもどうや」
本当は一刻も早く帰って、入試試験の勉強をしたかった。だが、断るのも気が引ける。
「じゃぁ、ちょっとだけ」
そのまま志摩家の居間に通された。
「あれ、子猫さん。どないしはったん」
がらりと居間の襖を開けた廉造が、珍しいものでも見たかのように驚いた顔をする。
「ちょいと呼ばれとったんです」
炬燵を囲んで、柔造、金造、蝮が座って茶を喫している。志摩と宝生の子供たちが犬猿の仲だというのは、京都出張所や明陀に関係するものなら誰でも知っている。普段は互いに申《さる》だの蛇だの文句を言っていがみ合っているワリに、こうやって仲良くみえるような時もあるのだから不思議だ。他の者たちは、彼らのケンカを見てもまたじゃれ合っているという認識で、たまに飛んでくるとばっちりに振り回されませんようにと祈っている。
「はい、志摩さん参考書」
「おお~。子猫さん感謝や」
「廉造、借りたもんそこいらにほったらかしたらあかんえ」
「へいへい、わーってる、わーってる」
柔造に適当な返答をしながら廉造がちゃぶ台の上に乗った饅頭をひょいと口に放り込んだ。子猫丸はそれを見ながら「そろそろ…」と暇を告げようとする。
「なんや、廉造。柔兄にちゃんと返事せぇ」
「お前に言われとうないわ」
しかしタイミングが悪かったらしく、金造と廉造の言い合いに紛れてしまう。
「お前言うんは誰に言うとるんや」
「お前やお前」
「んだぁ?誰に向かって口聞きよるんや」
「お前で判らんか。ほなら、俺の目の前におる金髪のアホゥや」
「…ほぅ。言うたな?」
「言うたがどうした」
柔造と金造が睨み合って既に一瞬即発の状態だ。蝮と柔造は全く何も起こっていないと言わんばかりに平然としてお茶を啜っている。
「死にさらせ!」
「アホか、死ぬんはお前じゃ!」
メガトンキーック!!とよく判らない技の名前を叫びながら、金造の飛び蹴りが放たれる。ドシン!と音がして座敷に倒れこんだ廉造に馬乗りになった金造が、そのまま弟の身体を海老ぞりにする。
「あだだだだっ!」
ギャーギャーと繰り広げられる兄弟げんかは、子猫丸にも馴染みの光景だ。しかし、これが始まるとまた帰れないのだ。腰が半分浮いたような状態で、子猫丸はウロウロする。
「心配せぇへんでも、大丈夫や」
申《さる》やし、と蝮がぼそりと言う。
「おう、子猫もう一杯どうや」
柔造が急須を差し出してくる。そんなことは百も承知ですわ。そうやのうて、僕は勉強しに帰りたいんや。しかし、何となく言いづらくて口篭ってしまう。
「ちょっ…、誰も俺助けてくれへんのっ!?ヒドイわっ!」
金兄ギブや~、と泣き声で廉造がバシバシと畳を叩く。降参、の意味のタップだ。が、金造は辞める気配がない。子猫丸は溜め息を吐いた。ここで巻き込まれてはいけないのだ。きっぱり帰ろう、と決心する。
「子猫さん~」
廉造の救いを求める声も黙殺する。と言うか、志摩の兄弟げんかは原因などあって無きが如し。些細なことでケンカが始まるのだ。
と、がらりと襖が開いて勝呂竜士が入ってくる。
「あ、坊《ぼん》!」
「なんやお前ら、相変わらずやな」
金造にしばかれる廉造を見て、呆れた顔をしながら勝呂がちゃぶ台の前に座る。
「勝手に上がらせて貰うたで。試験勉強の息抜きしよ思うてな」
「構しまへん。今あんじょう熱いとこ入れますよって」
柔造が嬉しそうにいそいそと新しい茶の用意をする。蝮が勝手知ったると言う様子で、水屋から新しい饅頭を出してくる。
ああ、また帰るタイミングを逃してしもうた…。子猫丸が小さく溜め息を吐いた。僕は人一倍努力せな、何も出来ひんのや。親の居らん僕が、高校にまで行かせて貰えて、しかも坊と一緒に東京で祓魔を学べる機会まで貰えるんや。早う明陀の一員になって、育ててくれた明陀に恩返しするためには、必死で努力せなアカンのに。
「蝮が一緒に居るなんて珍しいな」
勝呂が柔造の入れてくれたお茶を啜る。その言葉に蝮が急に真っ赤になって慌て始める。
「あの、いえ…、別に用でものうて…、その…」
「どうしたんや、蝮?顔真っ赤やで?」
「や…、やかましいわ!お申!」
きょとんとした顔で尋ねる柔造に怒鳴りつけると、蝮は「失礼しますっ!」と叫ぶと座敷を出て行ってしまった。
「なんや、アイツ…」
柔造と勝呂が呆然と蝮を見送る。金造も廉造にチョークスリーパーを掛けながら、不思議そうな顔をして蝮を見送った。廉造は相変わらず畳をタップしている。
「なぁ?子猫」
勝呂から同意を求められて、子猫丸はここでも帰るタイミングを逸する。仕方なく、どないしはったんでしょうねぇ、と呟く。こうなっては仕方ない。勝呂が帰るタイミングで席を立つしかない。
「そうや、子猫に聞きたいことあったんや」
「なんです?」
答える前に志摩家の次男、柔造が軽々と自分を持ち上げて『高い高い』をする。
確かにまだ平均より背が小さい。ヒドイ時には学生証が無いと、未だに中学に上がったばかりの歳と勘違いされてしまうこともある。しかしこれでも春から高校生だ。いつまでも小さな子供扱いされるなど、男の沽券に関わる。
そうは思っても、目の前の男はいくら抗議しても辞めてくれないのだから、どうしようもない。
「昨日も寄せて貰うてますよ、柔造さん」
「なんや、少しは喜びや」
柔造が三輪子猫丸を下ろしながら、口を尖らせる。
志摩家の廊下で、早く床に足が付かないかなぁ、とバタつかせて自分はなにをしているのか。ちょっと悲しくなる。
「僕もう高校生…っ!」
下ろすと油断させて、ダメ押しの『高い高い』を食らう。
背が小さいとは言え、これでも少しは鍛えている。同じ背丈の平均的な女性よりも重いはずだ。それを軽々と持ち上げてしまう柔造はどれだけ力持ちなのか。
そんな憧れの存在の、自分への扱いが恨めしい。
「ちょ、柔造さん!ホンマ堪忍ですわ」
女にモテる癖に、子供が大好きだと言う兄代わりの男は、子猫丸を高い高いすることの何が嬉しいのか、もの凄く嬉しそうな顔をしている。彼の後ろに居た、宝生蝮が呆れたような顔で子猫丸と柔造を見つめていた。
やっとのことで床に足を着けた子猫丸は、柔造に頭を撫でられる。
本気で僕を子供扱いしてはるなぁ…。
早くに両親を亡くし、志摩と宝生、そして明陀宗の座主である勝呂家の面々に親代わり、兄弟代わりをして貰って育った子猫丸は、歳に似合わず考え方が冷静で大人びている。三輪の家を継がなくてはならないと言う気持ちがそうさせるのかも知れない。
あんまり気負うな、言う柔造さんの気配りやろか。
柔造の顔を見て子猫丸は自分の見解を撤回した。
どう見ても楽しんではるわ…。
こんな時に、もっと背が欲しいと思わずには居られなかった。
「で、今日はどないしたんや?」
ぐりぐりと頭を撫でたままだ。
「志摩さんに参考書を貸して欲しいて頼まれたんですわ」
「ほうか、そらご苦労さんやったなぁ。あのあほぅ、まだ帰っとらへんで」
それは子猫丸もよく知っている。帰りがけに下級生の女の子たちと話していたのを見かけたからだ。
「ほなら、僕これ置いて帰りますわ」
「まぁ、そない言わんと、ぶうでもどうや」
本当は一刻も早く帰って、入試試験の勉強をしたかった。だが、断るのも気が引ける。
「じゃぁ、ちょっとだけ」
そのまま志摩家の居間に通された。
「あれ、子猫さん。どないしはったん」
がらりと居間の襖を開けた廉造が、珍しいものでも見たかのように驚いた顔をする。
「ちょいと呼ばれとったんです」
炬燵を囲んで、柔造、金造、蝮が座って茶を喫している。志摩と宝生の子供たちが犬猿の仲だというのは、京都出張所や明陀に関係するものなら誰でも知っている。普段は互いに申《さる》だの蛇だの文句を言っていがみ合っているワリに、こうやって仲良くみえるような時もあるのだから不思議だ。他の者たちは、彼らのケンカを見てもまたじゃれ合っているという認識で、たまに飛んでくるとばっちりに振り回されませんようにと祈っている。
「はい、志摩さん参考書」
「おお~。子猫さん感謝や」
「廉造、借りたもんそこいらにほったらかしたらあかんえ」
「へいへい、わーってる、わーってる」
柔造に適当な返答をしながら廉造がちゃぶ台の上に乗った饅頭をひょいと口に放り込んだ。子猫丸はそれを見ながら「そろそろ…」と暇を告げようとする。
「なんや、廉造。柔兄にちゃんと返事せぇ」
「お前に言われとうないわ」
しかしタイミングが悪かったらしく、金造と廉造の言い合いに紛れてしまう。
「お前言うんは誰に言うとるんや」
「お前やお前」
「んだぁ?誰に向かって口聞きよるんや」
「お前で判らんか。ほなら、俺の目の前におる金髪のアホゥや」
「…ほぅ。言うたな?」
「言うたがどうした」
柔造と金造が睨み合って既に一瞬即発の状態だ。蝮と柔造は全く何も起こっていないと言わんばかりに平然としてお茶を啜っている。
「死にさらせ!」
「アホか、死ぬんはお前じゃ!」
メガトンキーック!!とよく判らない技の名前を叫びながら、金造の飛び蹴りが放たれる。ドシン!と音がして座敷に倒れこんだ廉造に馬乗りになった金造が、そのまま弟の身体を海老ぞりにする。
「あだだだだっ!」
ギャーギャーと繰り広げられる兄弟げんかは、子猫丸にも馴染みの光景だ。しかし、これが始まるとまた帰れないのだ。腰が半分浮いたような状態で、子猫丸はウロウロする。
「心配せぇへんでも、大丈夫や」
申《さる》やし、と蝮がぼそりと言う。
「おう、子猫もう一杯どうや」
柔造が急須を差し出してくる。そんなことは百も承知ですわ。そうやのうて、僕は勉強しに帰りたいんや。しかし、何となく言いづらくて口篭ってしまう。
「ちょっ…、誰も俺助けてくれへんのっ!?ヒドイわっ!」
金兄ギブや~、と泣き声で廉造がバシバシと畳を叩く。降参、の意味のタップだ。が、金造は辞める気配がない。子猫丸は溜め息を吐いた。ここで巻き込まれてはいけないのだ。きっぱり帰ろう、と決心する。
「子猫さん~」
廉造の救いを求める声も黙殺する。と言うか、志摩の兄弟げんかは原因などあって無きが如し。些細なことでケンカが始まるのだ。
と、がらりと襖が開いて勝呂竜士が入ってくる。
「あ、坊《ぼん》!」
「なんやお前ら、相変わらずやな」
金造にしばかれる廉造を見て、呆れた顔をしながら勝呂がちゃぶ台の前に座る。
「勝手に上がらせて貰うたで。試験勉強の息抜きしよ思うてな」
「構しまへん。今あんじょう熱いとこ入れますよって」
柔造が嬉しそうにいそいそと新しい茶の用意をする。蝮が勝手知ったると言う様子で、水屋から新しい饅頭を出してくる。
ああ、また帰るタイミングを逃してしもうた…。子猫丸が小さく溜め息を吐いた。僕は人一倍努力せな、何も出来ひんのや。親の居らん僕が、高校にまで行かせて貰えて、しかも坊と一緒に東京で祓魔を学べる機会まで貰えるんや。早う明陀の一員になって、育ててくれた明陀に恩返しするためには、必死で努力せなアカンのに。
「蝮が一緒に居るなんて珍しいな」
勝呂が柔造の入れてくれたお茶を啜る。その言葉に蝮が急に真っ赤になって慌て始める。
「あの、いえ…、別に用でものうて…、その…」
「どうしたんや、蝮?顔真っ赤やで?」
「や…、やかましいわ!お申!」
きょとんとした顔で尋ねる柔造に怒鳴りつけると、蝮は「失礼しますっ!」と叫ぶと座敷を出て行ってしまった。
「なんや、アイツ…」
柔造と勝呂が呆然と蝮を見送る。金造も廉造にチョークスリーパーを掛けながら、不思議そうな顔をして蝮を見送った。廉造は相変わらず畳をタップしている。
「なぁ?子猫」
勝呂から同意を求められて、子猫丸はここでも帰るタイミングを逸する。仕方なく、どないしはったんでしょうねぇ、と呟く。こうなっては仕方ない。勝呂が帰るタイミングで席を立つしかない。
「そうや、子猫に聞きたいことあったんや」
「なんです?」