囚われ
思うままに馬で大地を駆けていたころは、今となっては、はるか昔のことのようで。
ローデリヒ・エーデルシュタインの屋敷は広大にして優美である。
その屋敷の廊下を、ギルベルト・バイルシュミットは歩いていた。
ギルベルトはそれなりの振る舞いをすれば貴公子に見えるような容姿の持ち主であるものの、男ばかりの中で戦いに明け暮れていた過去があるせいで、粗野というほどではないがローデリヒのような優雅な雰囲気はない。
今はローデリヒと会って話をしたあとだ。
つまり、帰りである。
ギルベルトは玄関のほうへと進んでいく。
廊下の天井は高く、所々にシャンデリアが吊されている。右側の壁には華やかな色彩の絵画が掛けられ、左側には窓が並んでいる。
窓の向こうには庭が見える。冷たい風の吹く冬枯れの景色だ。しかし、きちんと手入れされているので、つい眼が行くような趣がある。
ふと。
「ギル!」
背後から呼びかけられた。
振り返らなくても、その声の持ち主がだれなのかわかる。声を聞いて瞬時に、その姿が頭に浮かんでいた。
ギルベルトは足を止めた。背後に彼女が近づいてくる気配を感じながら。
そして、身体ごと振り返った。
彼女は、もう、すぐ近くまで来ていた。
エリザベータ・ヘーデルヴァーリだ。
パフスリーブの長袖のワンピースに前掛けをして、ふんわりとしたさわり心地の良さそうな長い髪の一部は布で包まれている。
エリザベータはこの屋敷の使用人なのだ。
それを思うと、ほんの少しだけ胸に苦いものが走った。
記憶がよみがえってくる。
まだ彼女が彼でもあったころ、その最後に近いときのことだ。
あのとき、ギルベルトは名前が変わったばかりだった。
そして、エリザベータは木にもたれるようにして座っていた。
そんなことを思い出し、けれども、その記憶をすぐに胸の奥底にしまいこんだ。
ギルベルトはいつもと変わらない表情をエリザベータに向ける。
「よぉ、俺になんか用か?」
「特に用はないわ」
あっさりとエリザベータは言う。
「むしろ、なんの用だったのか聞きたいのはこっちのほうよ」
「ああ?」
「ローデリヒさんを困らせるような話をしに来たんじゃないでしょうね?」
大きな眼が探るように見ている。
少しツンとした様子である。
ふだんはおっとりとした優しい雰囲気を漂わせているのだが、ときおり、遊牧民族として戦っていたころの顔をのぞかせる。
特にギルベルトが相手だとそうなる。昔の自分を知っているという気安さがあるのだろう。
ギルベルトはにやっと笑う。
「なんだ、もしかして、あの坊ちゃん、不機嫌になってるとかか?」
からかうように言った。
すると、エリザベータはギルベルトを軽くにらんだ。
「そんなんじゃない。ただ、部屋でひとり、ピアノを弾いていらっしゃるだけよ」
ローデリヒはピアノを弾くのが好きだ。そして、その腕前はピアニストとしてもやっていけそうなぐらい見事である。
ギルベルトはエリザベータの言った光景を想像した。おそらく、ローデリヒは気をまぎらわせるためにピアノを弾いているのだろう。
「ローデリヒさんは自分の苛立ちを他人にぶつけたりはしないわ」
エリザベータはさらに続ける。
「ローデリヒさんは優しい人だから」
そのエリザベータの声も表情も優しかった。
ローデリヒさん、ローデリヒさん、か。
そうギルベルトは思った。
エリザベータと話をしていると、その唇から何度も紡ぎだされる名前だ。そして、いつも、エリザベータはローデリヒの味方をする。
使用人だからそうなって当然。
でも、本当にそれだけなのだろうか。
などと考えても、しかたない。
ギルベルトは考えるのを打ち切って、胸の中のもやもやとした思いを消し去る。
「……お坊ちゃんに変な動きをしてる国があるって教えてやったんだ」
何事もなかったかのように、いつものように、えらそうに言う。
「俺様は親切だからな」
エリザベータに笑って見せた。
それから、さっと身をひるがえす。
「じゃあな」
ギルベルトは右の手のひらを肩の上まであげ軽く振った。
その手をおろすと同時に歩きだし、去っていこうとした。
けれども。
「ギル、ちょっと待ちなさいよ」
エリザベータに呼び止められた。
だから、ギルベルトはふたたび足を止めて身体ごと振り返る。
少し離れてしまったぶんを埋めるようにエリザベータが近づいてきた。
エリザベータの手が動く。そういえば、さっきからずっとエリザベータは両手をうしろにやっていた。
なにかを隠し持っているのか……?
そうギルベルトは思った直後、ハッとする。
隠し持っているものはフライパンかもしれない。エリザベータにとってフライパンは調理器具であるだけではなく武器でもある。
そして、敬愛するローデリヒをわずらわせるようなことを言いに来たギルベルトに対してエリザベータは腹をたてているのかもしれない。
「わーっ、暴力反対!」
ギルベルトは身構えた。
だが、足を止めたエリザベータの手にあったものはフライパンではなかった。
ギルベルトは驚き、なにを言えばいいのかわからず、エリザベータをじっと見る。
エリザベータは眼をそらした。
その唇が開かれる。
「外、寒いでしょう。だから」
眼をそらしたまま、続ける。
「これ、使って」
その手にあるものは、ギルベルトに差しだしたのは、マフラーだ。