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水底にて君を想う 水底【4】

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手を差し伸ばす。
 少なくとも、そうしてみた。
 しかし、その手は見えない。
 手だけではない、何一つ、ほんの僅かな光さえ見えてこない。
 目が駄目になっているのだろうか。
 音も聞こえてこない。
 耳も利いていないのかもしれない。
 髪が揺れるような感触だけが伝わってくる。
(ああ……まるで、水の底だな)
 賢木は微かに息を吐き出す。
 泡になって上がっていくのが感じられる。
 ここがどこなのか賢木には、よく分かっていた。
 意識の底。
(……あいつのとは随分と違うな)
 皆本の顔が浮かぶ。
 泣いている幼い皆本とそれを見守るキャリー。
 光が瞬く、皆本の意識の底。
 キャリーの事件の時、ほんの少しだけ垣間見た光景。
(俺は結局、何もできなかったな)
 自分が恐らくは助かっているだろうことは理解できている。
 最後に見たのは光の渦の中、三人の女神が翼を広げる光景だったのだから。
 ここから浮上して、意識を覚醒させなければならないことも分かっている。
 しかし、賢木は動かない。
 目を閉じてみる。
 より深い闇が降りてくる。
 皆本の手が触れた時、視えてしまった未来。
 それが脳裏に浮かび上がる。
 幾重にも重なり、ぼやけ、霞み、決して重いものではないのだろう。
 しかし、そこに皆本を殺す自分の姿があった。
 皆本を裏切る自分の姿があった。
 賢木はまた息を吐き出す。
(きっついなぁ……)
 目を開けてもそこには闇が広がる。
(どうせもう、傍には居られねぇし)
 助かったどうか分からないが、賢木は普通人を害している。
 バベルの超能力者がそんな事をすれば、世間が黙ってはいない。
 管理官や局長がいかに庇った所で、罪に問われる事になるだろう。
(なあ、皆本)
 口を動かしてみるが、声にはならない。
(ここでなら……、ここでなら、お前を想っていてもいいだろ……?)
 返ってくるはずのない応えを求めるように、賢木は両手をゆっくりと上へと差し向けた。


水底【4】

 厚いガラスの向こう側、ベッドに横たわる賢木の姿。
 その体には無数の機械が付けられている。
 皆本はそのガラスに額をつける。
 冷たさが伝わってくる。
「皆本クン」
「管理官」
 慌てて顔を上げる皆本に不二子は軽く笑ってみせる。
「どう?」
「……変わりないです」
「そう」
 不二子もガラスの向こうに視線を移す。
 あれから既に十日が過ぎようとしていた。
「もう、ウイルスは問題ないんでしょ?」
「ええ。ただ、それを証明できるだけのものがまだ揃っていないので」
「隔離はまだ続けるのね」
 皆本は頷く。
「今日は帰って休んだら」
「いえ、もう少しですから」
 そう言う皆本の横顔はひどくやつれて見える。
 不二子はため息をつく。
「貴方達はよくやったわ。少なくとも予知は回避できた」
「……」
 予知は、賢木の死だけではなく、それによって引き起こされる超能力者の大量死も予知していた。
 確かに未来は変わったのかもしれない。
「だから、自分を責めちゃだめよ」
「……はい」
 皆本は知らず、胸の時計を握り締める。
 針の動きが、微かに伝わってくる。
「そう言えば、『黒い幽霊の娘』から連絡があったんですって?」
「ええ。あの時、携帯に賢木の位置を教えるといって」
 他のバベルのメンバーの指揮を執るため、薫達とは別行動をとっていた皆本に『黒い幽霊の娘』から連絡が入った。
 抑揚のない声でただ賢木の位置だけを告げてきた。
 あれがなければ、間に合わなかっただろう。
「なぜかしらね」
「分かりません。ただ、僕には彼女が決して悪い人間には思えない」
「こんな真似をしたのに?」
 不二子の問に皆本はええ、小さく返す。
 そんな皆本に不二子は少し呆れた顔をしてみせると、その肩を叩く。
「今日は休みなさい。不二子、命令しちゃうわ」
「管理官」
「大人しく言うこと聞かないと、押し倒しちゃうわよ~」
 顔を近づける不二子に皆本は慌てて飛び退る。
「あら、いい反応ね」
「わ、分かりました。今日は上がらせて貰います」
「よろしい」
 満足そうに笑う不二子に、皆本は困ったような笑顔を返した。

 -皆本がいなくなってからも、不二子はそこに留まっていた。
 眠ったままの賢木の表情はどこか、穏やかに見える。
「……貴方が起きないと、皆本クンが泣くわよ」
 不二子の呟きに、賢木が微かに身じろいだ気がした。


 デジタル表示の日付が一日進む。
 葵は横目でそれを確認する。
「今日も遅いんやろか」
「センセイがまだ起きてないんでしょ」
 紫穂はそう応えながら、三人分のカップにホットミルクを注ぐ。
「はい、薫ちゃん」
 差し出されたカップを礼と共に薫が受け取る。
「フェザーのは?」
「また、寝てるわ。こないだの件で力を使い過ぎて大変みたい」
「そっか……」
 薫はカップを両手で包む。
 ほんのりとした熱が伝わってくる。
「賢木先生、大丈夫やろか」
 葵の声が不安で揺れている。
 紫穂は何も言わずにミルクを口に含む。
 時計の音だけがやけに響く。
「うち、うちな……」
 沈黙に耐えられなくなったように、葵が口を開く。
 薫が葵の方を向いて、続きを待つ。
「うち……賢木先生のこと、好きやねん」
「葵ちゃん?」
 紫穂が目を丸くする。
「好きっていっても、そう言う好きやのうて。その、なんや」
 葵は手元でカップを揺らす。
「こういうお兄ちゃんおったらええなって、そういう感じやねん。ほら、弟のこととかで相談にものってもろうたりしてたし、だから」
 言っていて恥ずかしくなったのか、早口になっていく。
「うん。分かる」
「そ、そやろ」
「あら、出来の悪いお兄ちゃんね」
 意地の悪い紫穂の言い方に、薫はひどいなぁと笑う。
 葵はほっと一息ついて、二人の顔を見る。
「だからうち、元気になってもらいたいねん。それで、また、馬鹿な事して欲しいねん」
「そうね、あの毒舌も聞けないと物足りないものね」
「毒舌は紫穂にだけだと思うけど」
 薫の言葉に葵が頷く。
 紫穂は澄ました顔で、カップの中身を空ける。
「……先生のさ」
 床に視線を落としながら薫がポツリとしゃべり出す。
「先生の好きな相手って誰かな」
 誰かに尋ねているというより、独り言のような調子で続ける。
「あの時、先生の感情がワーッて流れ込んできて、何が何だが分かんなかっただけどさ。すっごく重くて、苦しくて、辛くて……胸がギューってなったんだ」
「うん」
 紫穂が相槌を打つ。
 薫は自分の胸の上に手を置く。
「あたしの知ってる『好き』と違ってた。でもあれも『好き』なんだって、あれが先生の『好き』なんだなって」
 薫の手に紫穂の手がそっと置かれる。
「うん……そうね」
「紫穂は知ってるんや?」
「……」
 紫穂は黙って首を横に振る。
 と、隣の部屋からけたたたましい音が上がる。
 三人は顔を見合わせた。

「うわぁっ」
「ティム!?」
 伸ばされた指先の僅か先を、無常にも落下していくボウル。
 ステンレス製のそれにはバレットの力も及ばない。
 耳障りな音が響く。
 そして、白い粉が舞い上がる。
「……やっちゃったー」